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転職と退職の話

何回かブログでちらほら言ってましたがこの度転職活動し、年末を以って退職、新年とともに新しい会社に行くことになりました。

よく聞かれる転職の理由ですが、1番大きな理由は専門職として、専門性を持って働きたいと思ったからです。(だったら何で専門職で応募しなかった!就職活動で何も考えなかったのか!とお叱りが飛んできそうですが全くその通りで弁解のしようもありません。)

そもそもの入り口ですが、私は生命保険会社に総合職として就職、初期配属で地方の支社に配属されました。営業にはなりたくないという理由で銀行ではなく保険を選んだところがあります。

大学、大学院と計量経済学統計学を専攻していたこともあり資産運用やインステック(保険×ITの造語)に携わりたいと面接では言い続けていましたがそれは叶いませんでした。たしかにこれらを行う部署は本社にしかないので配属される確率は限りなく低い。

ただ入社5年以内に支社と本社両方を経験するという方針が弊社にはありその時は深く考えず、次は本社だなーという軽い気持ちでいました。

支社配属で就いた部署は企画担当。主に営業職員(生保のお姉さんと言われる方たち)の成績管理と行事運営です。
成績管理とともに、ある一定の成績を挙げた職員への粗品支給等も行いました。いわゆる事務職です。

支社では他に営業職員を育成するために研修を行ったり新たに職員を採用するためにイベントを企画する部署、お客様対応をする部署、営業職員に同行して経営者保険を取ってくる部署があります。私の支社は大体50人くらいの規模でした

この仕事のうち行事運営が圧倒的に苦手でした。
表彰式や優秀な成績を挙げた職員を旅行に連れて行く行事わパーティーなど、どのような事態が想定されるのか、旅行であればどのような導線で職員を誘導するのか、パーティーであれば席はどのように決めて途中の余興やゲームはどう進行し誰が何を行うのか…こういったことを突き詰めて考えて行くのが圧倒的に下手くそでした。

ただこれらの行事も何回かやっていけば慣れていく、実際に2年目には少しコツが掴めるようになりました。

ただ、総合職である以上、一度本社に行ってもその後また支社に出ることも大いにある、もしかしたらそのあとは営業職にされるかもしれない(実際周りの役付きには営業経験者がゴロゴロいた)
また支社に行って同じような仕事をする、もしくはお客様対応や支社での営業担当になる可能性もある。それは嫌だなという気持ちが確かにありました。

また、支社で3年過ごしたあと、本社配属になってもリーテイルやホールセールの営業、アンダーライティングと言われる保険金支払いの部署だったらどうしようという思いもありました。総合職である以上どこの部署に配属されるかは運要素が強いのです。(もちろん希望を言う機会はあるがそれが叶うかはもちろんわからない。)
そして総合職である以上、転勤を伴うローテーションは3年置きくらいでやってくる、そうなったら運用やデータ分析の部署に行けても専門性はつかないのではとも思いました。
今の会社ではゼネラリストに離れるけれどスペシャリストにはなれない、と思いました。

実際、私の面接を担当してくれた方で、運用部門にいた方が異動で支社に出されアセットマネジメントの会社に転職したと言う事例もありました。


まぁ要するに今の会社における負の未来しか見えなくなっていたのです。


そして私も来年には27歳、転職するなら30前半くらいまでと言う世間の言説に影響されて、動くなら今だなと考えました。そして自分の専門性を見つけ、伸ばして行くにも動く必要があることも感じていました。

こういった事情が重なり在職1年3ヶ月という短さで転職活動を開始しました。

やり方としてはいたって簡単でいくつかの転職サイトに登録、そこで運用やデータアナリスト職の求人を探すだけでした。

ただ運用の仕事は業務経験を問われるところが多く早々に断念、運良く今回内定をくれた会社を見つけデータアナリスト職として採用してもらえることとなりました。

ただ今度行く会社はグループ全体で今の会社と提携しており、実際今の会社にデータアナリストとして出向することもあるということは言われました。私も今の会社が嫌いというわけではなかったので、退職してからもほっそい糸で今の会社とつながっていくことになりそうです。


とまあ、転職の経緯はこんな感じです。エゴ丸出しの転職理由なので人によってはなんて身勝手な考えだと感じるでしょうし、共感する人もいるかもしれないです。

ただ私自身まだ次の会社で働いているわけではないので、何が正解なのかわからないというのが現状です。
しかし自分で選んだ以上は望み通り専門性を身につけられるよう頑張っていきたいなと思っています。
そして残された残りの期間で少しでも今の部署の人に恩返しができる働きができるようになりたいなと思います。この会社、支社で学ばせていただいたこと、嬉しかったこともたくさんあるので。
特に成績優秀者旅行のガイドでは観光案内を全力でやらせていただいて(主に歴史関連)多くの人に満足(?)いただけて楽しかったです。


退職を決めて承認が降りてから、少しずつ周りの人に退職を話していますが「課がピリピリしてても君はニコニコ話してくれるから話しやすかったのに寂しい」とありがたい言葉をかけてもらうことがありました。

仕事をして行く上で、事務的な処理の速さや技術、スキルの有無以前に、愛嬌ってのも仕事を円滑に進める上で大切なんだなと感じたので次の職場でも愛嬌は大切にしたいと思います。

今後就活をする学生さんにへっぽこ社会人からアドバイス出来ることとすれば、自分が何をしたいのか、"就社"ではなく"就職"を考えましょう、ということ。
そして嫌な仕事でも何かしら学べることはあるということです。

おわり


そいえば転職活動で行った東京で新ゴジラ像を拝みました。前よりかっこよくなってる気がする

祇園城・鷲城 その他諸々

帰省しました。

お盆休みを転職活動に費やしてしまったため帰省してなかったからです(ちなみに転職についてはいずれ書こうと思います。ひとまず内定まではゲッチュしました。)

さて、私の地元は栃木県小山市というところでして、東京まで80キロ、栃木県第二の都市として北関東の中ではソコソコの規模の街です。ちなみに街の鉄道の中心地、小山駅東北新幹線も停車します。

どこぞの統計データみたいに過大評価していないか、心許ない調査ですがスポーツ選手も多数輩出しています。

さて、そんな小山市ですがこの街にもお城があります。主なものが祇園城、鷲城の2つ、共に国の史跡に指定されています。


駅の西側を流れる川、「思川」に沿って城が位置しています。


今回は地元紹介も兼ねてこの2つの城を紹介しようと思います。

ちなみに陽が落ちてからの散策で全体的に写真が暗いです


まず旅行に行ったら観光案内所へ行きましょう。小山市ではこの思季彩館が観光案内や物産販売を行っています。ここで自転車を借りました。

城に行く前にここで小山の歴史をざっくりと…

小山の名前の由来は諸説あるそうですが、川から見たときにこの土地が小さい山に見えたから、というものやアイヌ語起源説などあります。
平安末期、この土地から1つの武家が生まれます。それが小山氏です。街を流れる思川を利用し物流を円滑にし、北関東の要衝地を抑えていました。

この小山氏は平将門を討伐した藤原秀郷の子孫と称し、平安末期には小山政光という武将がこの土地を治めていました。この小山政光の後妻に寒川尼という方がいます。京都で生まれた彼女は源氏の跡取りと目されていたあの源頼朝の乳母を務めた後小山政光に嫁ぎました。

この時世間は平家の全盛期。平治の乱で敗れた頼朝は伊豆に島流し、小山政光は平氏に従い力をつけていました。

そこに舞い込んだ知らせが頼朝挙兵の報。北関東でも有数の武家だった小山氏にも協力するよう頼朝から要請が来ます。この時小山には政光の息子、小山朝政、宗政、朝光の三兄弟がおり、対応を協議します。

頼朝が挙兵したと言ってもまだまだ平家は強大、会議は紛糾しますが頼朝の乳母を務めた寒川尼の主導で頼朝に味方することで一致します。その後小山氏は頼朝に従って対平家、木曽義仲、そして奥州藤原討伐戦で軍功を重ね所領を増やし御家人の中でも高い地位を築いていきます。のちに宗政は長沼宗政、朝光は結城朝光と名乗り小山氏はますます栄えることとなります。

頼朝死後、鎌倉幕府は北条氏が政を行いますが北条氏は和田氏や畠山氏と言った累代の御家人を倒していきます。こうした流れの中でも小山氏は上手く世を渡っていきました。

鎌倉幕府が滅ぶ時も足利氏に味方することで家を保つことに成功、南朝勢力と戦うことでさらに力をつけ、北関東最大の武家へと成長します。

転機となったのは政光から数えて7代目の小山義政の時。
室町幕府も3代目義満の治世となっており関東に出先機関として鎌倉府が置かれていました。この時の鎌倉府の長官が足利氏満
という人で鎌倉府の力を高めようと躍起になっていました。一説には将軍職を狙っていたとも言われています。

この足利氏満に義政は目をつけられてしまいます。何しろ北関東最大の武家であり鎌倉府にも抵抗しうる力を持っていると言われていたからです。

そんな時小山義政は領地争いから隣国の宇都宮氏の領土に侵攻、宇都宮氏当主を討ち取ってしまいます。この行いが氏満に義政討伐の口実を与えてしまいました。この時1380年、小山義政の乱が始まりました。

この時の戦いの舞台となったのが鷲城、祇園城です。

当初小山氏は善戦しますが大軍で攻め込んだ鎌倉府軍には勝てず降伏します。許されますが再度鎌倉府に反抗、再討伐を受け義政は今の鹿沼で自害します。

義政の息子、若犬丸は助命されたものの何と祇園城で挙兵、再び鎌倉府と小山氏は戦うことになります。最終的に若犬丸は逃亡を重ねて会津で自害、幼い息子は捕らえられ処刑されます。
これを以て小山氏の嫡流は滅亡、結城氏から養子を迎えて名跡だけは相続されました。

時は流れて戦国時代、すっかり小大名になった小山氏は上杉謙信北条氏康と言ったメジャー武将に翻弄されながらも何とか命脈を保っていましたが豊臣秀吉による小田原討伐で北条方に付いたために祇園城から追放され、名実ともに滅亡することとなりました。

まさに栄枯盛衰といった感じですね。

長くなってしまいましたがこれが小山氏の歴史です

まず先に行くのは鷲城です。現在は一部が総合運動公園になっています

小山駅から国道50号線を通り越すとこんな看板があります

すぐ近くに石碑があります。いまは神社となっています。


先が真っ暗で千と千尋感がありますがズンズン進んで行きます
辺りに人もおらずかなりひっそりとした道です
神社も特に案内板等ありません。かつて戦があったという雰囲気もありません。
しかしここから下に降りると…



土塁や虎口がきちんと残されていました。
かなり保存状態も良いです。しかしもう日暮れ、かなり雰囲気が怖いです。絶対落ち武者の霊が出てる。

ちなみにこの道を下りきると


総合運動公園となっています。この小山に育った子供は遊びに来た人も多いと思います。

今度は祇園城に向かいます
この祇園城こそ小山氏の本城です
小山駅から歩いて10分くらい、小高い丘のようになった場所が城跡。現在は城山公園となっています。
鷲城と異なりちゃんと案内板があります
そして眼下には思川が流れています。中世小山の発展に大きく寄与しました。
縦に曲輪が作られ、曲輪と曲輪の間に空堀が掘られています
日も暮れて来てなかなか不気味な雰囲気になってきました。これ絶対出るやつだ…

空堀跡と二の丸跡です。もうすっかり真っ暗。闇。夜の城跡は怖い
この二の丸には昔大銀杏と井戸があったそうで、祇園城落城の時に女たちが身を投げたそうな。いや絶対出るやつだこれ
怖すぎて歩きながら写真撮ったためにブレブレ
掘りも真っ暗で撮れない…でもかなり深い掘りです。

いやー、何でこんな時間にお城来たんだ…
怖かったー

祇園城は掘りと曲輪がきちんと形として残っているためかなり見応えがあります。
ちなみにこのお隣にある天翁院には小山氏累代の墓があります
暗すぎて墓の位置もわからず捜索は断念しました。いや夜のお墓はダメでしょ精神に良くない。

さて、ここから駅に戻りますが、途中に市役所があります
市役所の隣には小山御殿の跡があります。
これは城ではなく江戸時代に入ってから将軍が日光に向かう際に宿舎とした場所です

かなり広い敷地だったみたいです。

そして市役所にもとある史跡が。それがこちら暗くて遠目で分かりにくいですがここは小山評定が行われた場所だそうです。

1600年、徳川家康会津上杉景勝を討つために出陣したところ、西では石田三成が挙兵、石田を討つか上杉を討つかでこの地で軍議が開かれたそうです。福島正則が三成討つべしと言うと諸将がそれに賛同、会議の結果石田三成を討つことが決まりました。これが本やドラマで描かれる小山評定です。
ただこの会議、現在はあったかどうか定かでないそうです。この石碑の命もどうなるか。

そういえば本日9月15日は関ヶ原合戦が起きた日ですね。平成最後の関ヶ原です。


それにしても垂れ幕の多い市役所です。

さて、地元の主な史跡を巡ることができました。
いつか巡ろうと思っていたのですが夜に巡るとなかなか雰囲気が怖かったです。
ただ故郷の歴史を学ぶ良い機会になったので今度は幕末の史跡がないか探してみようと思います。

皆さんも今住んでる場所や生まれ故郷の歴史散策してみてください!


おまけ

さすが田舎。
ペンギンハイウェイの公開が遅い。
岡崎の公開が終わったらこっちに見に行こうと思います。

ペンギンハイウェイ観ると一生懸命勉強してお姉さんに会いに行こうと思えるので是非こちらもみてください。

岡崎史跡(上宮寺、大久保氏発祥地、小豆坂古戦場)

ラーメン食べにいきました

まるぎん2号店で、汁なしそばです。大大盛りで1030円、旨しです。

さて、帰り道をいつもと変えようと思い、途中いくつか史跡を巡ってきました。

まずは1つ目、上宮寺


本堂が近代的すぎて史跡感が皆無ですが、実はこの寺、徳川家康と大きな関わりがあります。

なんとこの寺、三河一向一揆の引き金になったお寺なのです。

一揆のきっかけは、家康の家来菅沼定顕が上宮寺から糧米を強制的に徴収しようとしたためでした。
上宮寺は当時、本願寺教団における三河三ヵ寺と呼ばれ家康に対抗しました。

一揆は鎮圧され、上宮寺も荒廃しましたが、鎮圧から20年後、妙春尼という方の口添えで赦免され、無事に復興しました。
境内にはこの方のお墓もあります


1988年に本堂や庫裏などが全焼しましたが、1996年に銅版屋根の現代作りで再建されました。

住所
〒444-0936 愛知県岡崎市上佐々木町梅ノ木34
あまり交通機関もなさそうな感じでした…

ここからチャリを漕ぎ漕ぎ町の中心部に向かいます。

2つ目がこちら、大久保氏発祥地

大久保氏は松平家の譜代家臣で、特に大久保忠世、忠佐兄弟は家康幼少期の頃から仕えて大きな武功を立ててきました。

幕府開府後は本多家との政争に負け没落しましたが、その後赦免され小田原藩主などを務めました。

この場所にはかつて上和田城という城があったようですが、周辺にはもう遺構が残っていません。

JR東海道本線 岡崎駅から北西に行き、県道48号線方に面した「上和田公民館」の敷地内に 大きな石碑が建っています。

そしてここからさらにチャリを漕ぎ漕ぎ、県道48号線をどんどん西に進みいくつか坂を登って降りてを行うと古戦場にたどり着きます。

それがこちら
小豆坂古戦場です

1542年と1548年の2回にわたって織田氏と今川・松平連合の戦いの場となりました。

ここ以外でも織田と今川の戦いは続き、1560年の桶狭間の戦いまで続きました。




血洗池跡や槍立松など戦を思わせるものが残り、周辺には記念碑や慰霊碑も残り、戦さの激しさを物語ってます。

愛知県岡崎市戸崎町

こうしてみると岡崎はまだまだ沢山の史跡がありそうです。これからも定期的に岡崎の史跡を知らせていければと思います

伊賀八幡宮

こんにちは

岡崎の観光地の一つ、伊賀八幡宮に行ってきました。朝早く起きれたのでポケモンを捕まえに行きつつのお散歩です


伊賀八幡宮と言ってもローカルな観光地なので知らない人も多いと思います。

元々は文明2年(1470年)、松平氏4代親忠が松平氏氏神として創建したもので天下人となった徳川家康により社殿の改築が行われました。更に三代将軍家光が社殿を拡張し、祖父家康(東照大権現)を祭神に加えたものです。

第二次大戦でも消失することなく、今でも市民の崇敬を集めています。


この八幡宮は駅から歩くには遠すぎるので、名鉄東岡崎駅からバスに乗ることをお勧めします。

この鳥居をくぐって行くと本殿があります。

随身門です。神域を守る随神様を門の両側に祀っており国の重要文化財に指定されています。

境内に入るとさざれ石があります。

そして本殿です

慶長年間に徳川家康によって造営され、これも国の重要文化財です

今は通れませんが、蓮池と石橋があります。なんとこの石橋も重要文化財

ちなみに家康の家臣で本多忠勝の兜の一つに、鹿の角を前立てにしたものがあるのですが、その兜はこの八幡宮からいただいたものという説があります。

桶狭間の戦い後、家康から偵察を命じられた忠勝が川を渡れず留まっていたら、突然鹿が現れ渡川点を教えて消えた。それを伊賀八幡宮の神のお使い鹿だと思った忠勝は鹿角前立ての兜を作ったという説。
また、夢の中で八幡神から鹿の前立ての兜を賜る夢を見たので伊賀八幡宮に行ってみたら、神主がちょうど前立てを作っており、事情を聞くとその神主も夢で前立てを作るよう八幡神から告げられたと言ったため貰い受けた、という説


嘘か真かわかりませんが、いずれにしても本多忠勝ともそれなりの関連もある伊賀八幡宮、毎年家康行列(毎年4月)の出陣地ともなっているのでお祭りに合わせてきて見てください!

僕と痔瘻の〇〇日戦争(戦争終結)

どうも
すっかりご無沙汰のこのシリーズ、ついに完結しました。


二度と治らぬ不治の病と化したわけではなく、、、

無事に完治宣言が下りました!

いやー長かった、長かった、、、

最初に肛門周囲膿瘍になったのが今年の1月、実に8ヶ月に渡る戦いでした。

人生初の手術、会社を休んでの入院、割としっかりした病院食、歩くこともままならない激痛、、、今では全てが愛おしく思えます。

とりあえず痔瘻は完治しましたが、ストレス性の病気なのでこれからは無理せず健康的な生活を送っていきたいと思います。

結構お金もかかる大変な病気なので皆さんもくれぐれもお尻のケアはしっかり行いましょう!

病院最寄りのこの駅、城に定期的に行くことがもうないと思うと残念ですが、まずは完治を喜びたいと思います

僕と痔瘻の〇〇日戦争

第1部 完

(second seasonがないことを祈ります)

ゴジラが壊した城

博多に行って、福岡タワーに登ったらこんな場所がありました。

すごい迫力がありました。効果音として足音と鳴き声も付いており、まさしくタワーと同じ高さにゴジラがいるかのように感じました。

さて、ここでふと思ったわけですよ
「そういえばゴジラって高いものよく壊すけど、壊されたお城ってあったかな」と。

という事でこれまで見たゴジラ映画の中で記憶をひっくり返して思い出して見みます。

1.大阪城ゴジラの逆襲 1955年公開)

名作「ゴジラ(1954年公開)」の続編で、敵怪獣としてアンギラスが出てきます。
この2怪獣の戦いに巻き込まれて大阪城が大破します。


2.熱海城キングコング対ゴジラ 1962年公開)

そもそも熱海城を城とみていいのかどうかという問題がありますが(熱海には元々お城はなくあれは観光用に建てたもの)熱海城に怪獣の戦いに巻き込まれて壊されます。

3.名古屋城モスラ対ゴジラ 1964年)

名古屋城は怪獣の戦いに巻き込まれたわけではなく、掘りで足を滑らせたゴジラ天守閣にぶつかってその流れで壊します。なんでもスーツアクターのアクシデントがそのまま使われたとも言われています。

…あれ、多分これくらい??

僕の記憶が正しければお城が破壊された描写があるのはこんなもんですかね??

まぁ描写されてないだけで犠牲になったお城も数多あると思うのですがこんなもんだと思います、はい。

他にもあるよ!って人がいたら是非教えてください!

心を取り戻す旅in九州

九州に行きました。

院生時代の友人たちとの旅行です。仕事で無になった心を取り戻す旅です。

博多へは12:00の集合だったので7:06に家の最寄駅を出発できればいい感じの時間で博多に到着できます。

ちなみに今回は新幹線です。痔対策です。「九州」と「鈍行」と「痔」はセットですからね。

ここまで淡々と書いていますが実際目を覚ましたのは7:10。まあ堂々たる寝坊ですね。台風のごとく準備を終わらせて家を飛び出しました。

さて、盆の帰省ラッシュにもみくちゃにされながら博多へ到着、一路太宰府天満宮へと向かいました。

西鉄福岡駅から途中一回乗り換えをして太宰府駅を目指しました。

太宰府といえば、朝廷が西国統治の出先機関として設けた役所のことで、与えられた権限の大きさから「遠の朝廷」とも言われました。

そんな太宰府にある天満宮、祀られているのは菅原道真です。

遣唐使を廃止したりするなど政治の舞台で活躍した菅原道真ですが、讒言によってこの太宰府に左遷をくらいます。

道真自身は太宰府で亡くなりますが、死後彼を貶めた方達が相次いで不審死を遂げます。雷に打たれて亡くなった描写もあり、雷を司る怨霊として菅原道真像が形成されていきます。

ついには崇徳上皇平将門に連なる日本三大怨霊として御霊信仰の対象となります。

そんな太宰府天満宮ですが、学問の神様として有名です。筆者も来たる転職面接に備えて日本海溝よりも深い祈りを捧げました。なむなむ。


太宰府駅から天満宮までは店が並び縁日のような賑わいを見せています。スターバックスの外観がなかなか面白かったです。


鳥居をくぐって小さな橋を渡ると

本殿が見えてきます。

途中、たくさん風鈴を飾ってるスペースがありました。

本殿では多くの方々がなむなむお祈りを捧げています。特に絵馬にはさまざまな進路を志す若人の願いが書かれており、「頑張れよぉ〜」って心の中で応援したくなるような気持ちを味わえます。

ちなみに太宰府天満宮のすぐ近くには九州国立博物館があります。

すごい斬新な設計で、中には特に古代を中心に大陸との交易で栄えた博多、九州の解説、物品展示が行われています。
古代はすごい苦手な時代だったのでものすごい勉強になりました。

実は太宰府には岩屋城跡などちょいちょいお城があるのでいづれ行ってみたいです。


おまけ




旅行中1日は別府温泉に行きました。♨️
別府温泉は「地獄巡り」という源泉巡りが観光として有名らしいです。

とりあえず温泉に浸かることで心を取り戻せたので心が死んでる、死にかけてる人は是非温泉で蘇生させましょう