お城旅行記

お城旅行記と銘打ってるけど色々話したい

紅葉を観に行こうよう(飯盛山城・足助城)

ということで、タイトルのまんま、紅葉を観に行きました。

いよいよ退職まで一月強と迫って来たので有名な観光地を押さえておこうと思います。(そいえばまだ退職届出してねぇな…)

さて、今回は愛知でも紅葉が名物と言われる香嵐渓に行ってきました。

朝日が眩しい。。。

香嵐渓へのアクセスですが、自家用車かバスになります。今回は名鉄東岡崎駅からバスで行きました。所要時間は大体70分ですが乗り換えなしでいけます。

香嵐渓で降りると早速人の波。みんな紅葉目当てです。

香嵐渓は川に沿って紅葉が観覧できるようになっており、いろんなスポットがあるみたいです

はじめに地図中央にある飯盛山に向かいます。




香嵐渓のバス停から少し歩くと森林公園がありますがここが飯盛山
鎌倉時代から南北朝時代にかけて、足助氏の居城、飯盛山がありました。

かすれかすれですが案内板があります。

さて、足助氏についてですが、鎌倉幕府御家人だったのですが朝廷との結びつきも深く、後鳥羽院が起こした承久の乱では一族の多くが京方に味方します。

しかし結果は鎌倉幕府の勝利に終わり、生き残った一族によって足助氏も存続します。

その後時は流れ鎌倉時代末期、今度は後醍醐天皇鎌倉幕府討滅を図ります。

後醍醐天皇笠置山に籠りますがこの時、足助重範という当時の足助氏当主が後醍醐天皇に味方し鎌倉幕府相手に戦います。

しかし数の差は覆せず結果として足助重範は捕縛され京都の六条河原において処刑、足助氏は全国に散り散りになってしまったそうです。


登山道が整備されていますがそれなりに登るのは大変。しかも気温も低いからか肺が痛くてしょうがない。


頂上付近では紅葉がちらほらと見れました。

しかし土塁や堀などはあまり確認できませんでした。というよりも自然の地形なのか意図的に盛っているのかわからない感じでした。



山から降りる途中、この後紹介する足助城の城主、鈴木一族の墓がありました。

さらに麓には香積寺という寺があります。
先程紹介した足助重範の娘、滝野とその孫である成瀬基久(のちの国宝犬山城主、成瀬氏の祖先)、さらに関白二条良基が足助氏の菩提を弔うために館跡に建てました
多分城の遺構が残ってるとすればこの辺りのような気がします。

さて、この後は足助城を目指します。



香嵐渓の紅葉を楽しみつつ、抜けていきます。

それにしてもカップルが多い。



ゴミのように人がいたのに城への道に出た途端人がいなくなりました。みんな城には興味ないのかな。

城への看板はしっかりあるので迷うことは無いと思います。



真弓山というのが足助城のある山の名前。
足助城は山城のため基本的には山を登っていくことになります。足が震えてきました。


山道を登っていくとありました。足助城の入り口。

さて、足助城の説明をします。

足助城は戦国時代にこの地を治めた足助鈴木一族の居城になります。

1525年に徳川家康の祖父、松平清康がこの地を攻め、鈴木一族を服属させました。

しかしこの清康が若くして暗殺されると鈴木一族も離反、その後は離反服属を繰り返し1564年に徳川家康によって完全に服属させられます。

武田信玄が西上作戦を行った際にはこの城にも攻め寄せ、足助城は開城しますが直後に信玄が発病、死去することによって再度徳川の手に戻るなど様々な勢力に翻弄させられます。

1590年に徳川家康が関東に移されると鈴木一族も関東に移り、廃城となりました。

ただ、足助城の歴史はそこで終わりません。

なんと平成に入ってから城の復元計画が持ち上がります。

発掘作業中に大量に見つかった柱の跡や曲輪の後、さらに他の城の資料も使いながら当時の山城を再現しようと試みられたのです。スギョイ。

そのおかげで足助城は戦国時代の山城の姿を今に伝える貴重な遺構となりました。


足助城の入り口では発掘作業の様子や歴史をパネルで見ることができます。

ということで足助城へ!!

入場早々に大規模な曲輪と櫓が見えてきました。

なんかタイムスリップしたような感覚を得られます。

写真だとわかりにくいですが、西の曲輪が段々となっています。
空間としては大きなスペースではないです。

戦国時代の櫓が再現されています。
本丸へと続く道
かまどです。
ここからは大量の灰や炭化した木材が発掘されたそうです。この隣には厨があります。

木戸も上に開けるタイプ



厨の内部
当時の生活様式や建物の作りがわかります。
しかも地面には塩が練りこんであり、籠城時にはこれを削って水に溶かし、上澄みの水を飲んで塩分を補給するなど、戦いの時に備えも重視した作りになっているんだとか。

狼煙櫓
ここから各支城に連絡したようです。

そして本丸へ

本丸には高櫓が再現されています。
ほんとは1メートルほどずれたところにあったようですが、再現した時には某国営テレビのテレビ塔があったために元の位置に作れなかったのだとか
遠くに見えるのが信州に続く街道です。この道を武田信玄も通ったようです。それにしても丸見えですね。敵が攻めてくる様子がよくわかります
足助の町並み


高櫓の内部は殿様の居室、さらに二階は応接間となっています
戦国時代のボットン便所もあります。
ちなみに武田信玄は初の水洗式便所を使い名前を「甲州山」と名付けていたそうです(山には草木(臭き)が絶えないから)



写真左に見える紅葉した山が先ほど登った飯盛山です。少し足助城の方が標高が高いです

ということで紅葉そっちのけで飯盛山城、足助城を紹介しました。

どちらも山城なので体力を使いますが、特に足助城は遺構をうまく活用して戦国の城を再現しているので是非行ってみてほしいです。

香嵐渓には他にも足助の伝統的町並み足助重範を祭った足助神社など紅葉以外の見所もあるので秋に限らずとも是非来てください!

広島城!

どうも

今日アニメゴジラ第三部「GODZILLA 星を喰うもの」見てきました。

感想としてはゴジラという生き物が好きな人は楽しめる、ただ人間ドラマ含めて映画全体として楽しみたい人はそれなりのところに落ち着く、そんな感じがします。

機会やテクノロジーを信じるビルサルド
神や教義、信仰を重んじるエクシフ
命をつなぎ調和を尊ぶフツア
と、三種族の特徴がよく描かれ対比されていたのは良かったのかなと思います。

アニメゴジラに何を求めてるかで抱く印象は変わるのかなと思いました。

さて、劇中に核兵器に関する描写があったのですが、ゴジラといえば核の申し子とも言われ、元々は水爆実験による影響を受けて太鼓の恐竜が巨大化したというのがそもそもの設定です。

歴代作品でも水爆や原爆についての描写がありますが、今回はそれに関連して、実際に核兵器による被害を受けた広島城について紹介したいと思います。


広島駅から平和大通りへ。道路幅が100メートルあることから100メートル道路と言われ、日本に三本しかないうちの一本がこれです(残り二つは共に名古屋の久屋大通若宮大通


途中には学者の顕彰碑などがある他、原爆による犠牲者を悼む石碑などもあります。

平和大通りを進んで行くと川にぶつかります。その川沿いに行くと原爆ドームがあります。原爆投下時に何があったかを示すパネルや慰霊碑が並んでいます。

そんな原爆ドームを横目にさらに川沿いを進んで行くと、目当ての広島城があります。

広島城は戦国時代に毛利輝元によって築かれました。
豊臣秀吉によって五大老に任命された毛利輝元は西国支配の中心をここ広島に据えてまちづくりを行いましたが、関ヶ原の合戦で家康に対抗したため転封されます。

毛利の後には福島や浅野といった大名が領主となりました。

そんな広島も明治維新を迎えた後は日本軍の拠点が置かれ軍都として発展します。

広島に原爆が投下された理由にもなった軍都としての機能が大きくなり、日清戦争時には大本営が置かれ国会も開かれました。

原爆投下時は火災で燃えることはなかったようですが爆風による倒壊は免れず天守閣始めとした城の史跡はほとんどなくなったようです。

敷地内には戦争による被害を示すパネルもあり、
復興天守も拝めます。中は博物館となっており兜の試着も出来ます。

敷地内にあるこの白い扉、フェンスで今は覆われていますが、ここはかつて作戦司令部として使われ、原爆投下時に破壊された市内の電信に代わってここから広島の惨状を伝える一報が発信されたのだとか。

先ほど書いた、大本営後もきちんと残っています。

天守閣からは広島市内が一望出来ます。


堀を含めた広島城

地元からは残念な城と言われているようですが、明治から昭和にかけて日本の軍事を担った軍都としての記憶や原爆の影響を今に伝える貴重な史跡だと思います。


また、敷地から少し離れると陸軍幼年学校の跡地も現れます。

将校となる人材を供給する役目を担った幼年学校ですが今は門を残すのみ。この幼年学校のあり方も後世様々な批評がなされています。

広島にはこのように戦争の面影がいろんなところに残されており、なんというか背筋がピンと伸びるような感覚を感じることができます。

おまけ

広島といえばお好み焼きですが、広島市内にはこんなものがあります、

そう、お好み村
村といっても広い敷地ではなく一棟のテナントビルに沢山のお好み焼き屋が入居しています。

はしごもできるので広島にお越しの際は是非来てみてください。

ゴジラフェス!!

どうも

新居を決めに東京行きました。

とりあえず希望予算内でいい物件があったので良かったです。

高校の頃から東京で一人暮らしするというのにすごく憧れてて、今回転職を機にそれが叶ったことがめちゃくちゃ嬉しい!!

まずは仕事に慣れることが優先ですが落ち着いたら東京の史跡等も紹介していきたいです。

さてさて、

今日、11月3日ですが何の日だかわかる方いますか?

正解はゴジラの日

昨年、東宝日本記念日協会から認定を受けて制定されました(嘘だと思う方もいるかもしれないですが何と日経新聞にも取り上げられました)

さて、なぜゴジラの日が11月3日なのか…

それは第1作目「ゴジラ」が公開されたから

第1作目の記念すべきゴジラは観客動員数が960万人超えと大ヒットし、ここからゴジラシリーズがスタートしました。それを記念してこの日に決められたのです。

さて、そんな11月3日、東宝日比谷にてあるイベントが行われました。

これです。ゴジラフェス。

昨年は新宿で行われ、シンゴジラ出演俳優が来るなどかなり盛況でしたが今年は日比谷にて行われました。

具体的に何をやってるかというと
ステージでのトークショーや抽選会

子供向けの輪投げ大会

そしてゴジラにちなんだ食べ物販売です。ギドラパフェとか遊びすぎやろ。クオリティが高い。

他にもこのフェス限定のグッズ販売が行われました。

展示物としては3Dプリンターで作られたゴジラも展示されてました。金ピカ!!

昨年かなり物品にお布施してしまったのと、引っ越し費用等を鑑みてほとんど買い物しませんでしたがご朱印帳が新たに販売されるなどグッズのクオリティも高くなっていました。

ゴジラ好きにとって年一のイベントなので来年も楽しみにしています。


おまけ
ゴジラと鳩のツーショットが撮れました
核の象徴ゴジラと平和の象徴、鳩
なかなか皮肉の効いた組み合わせ

宅建!

宅建、受けました!

多分落ちました!


次頑張ります!!!




ということで宅建受けてきました。直接業務に関わるわけでもなく、かといって転職先でも必要になるというわけではないのですが、街巡りとか建物見るの好きだし、ちょっと勉強してみようという感じで受けたのですが、まぁ準備不足も甚だしかったみたいですね。

次は一年後なのでその間に証券アナリストとかの他の試験もやりつつ生きていこうと思います。


ところでこんな試験が目に飛び込んできました。

今までありそうでなかったゴジラ検定
しかも受験地は東京。転職後に受けられる!!

お値段が、中級でも6000円とちょっと張りますが…

ブログでもたまーに書いてますが、僕は生粋のゴジラファンなのでこれは是非とも受けたいです。

おわり

米原駅周辺(旅行後編)

はい、後編です。

舞台を京都から米原駅に移します。

米原駅って皆さん知ってます?東海道新幹線も止まる駅ですが、いかんせん名古屋と京都に挟まれてあまり知名度がありません。それどころかなんで止まるんだろうってくらいには何もない印象が強い。

いっそ岐阜羽島駅共々東海道新幹線から消えても誰も気にしないのではないかと思うくらいには印象が薄いです。(岐阜羽島駅知名度相当低いと思う)

ということで今回は米原駅の周辺を散策します。ちなみにこの駅にある立ち食いうどん屋はうまい。

本当はレンタサイクル借りたかったのですが生憎全部借りられていたのでバスと徒歩で頑張ります。
駅の東口には風土記を模した木彫り絵がかけられています。
さらに外にはかつて湊があったことを示す案内板があります。

まずは東口を見て行きましょう。
とりあえず空が青い。という感想しかないくらいには何もない。この道を歩いていき途中山の方に進んで行きます。
山道に沿って進むとこんな看板が。
この道は江戸時代に作られたこと、米原の発展に寄与した道ということがわかります。ちなみにこの道の横にある山、実は城跡。太尾山城というお城がありました。
ただ山なのでとりあえず今は放置。

山道を抜けると田園地帯へ。
西日が差しなんかこう、胸がキュンと締め付けられるような感覚を感じながら進んでいきます。この時点で駅から2キロ以上歩いています。
チャリが欲しい。
そんなこんなで歩いて行くとお目当ての看板が出てきました。番場宿です。


道脇に当時どんな建物があったかを石碑が建っていますが目的地はここ。

蓮華寺です。
聖徳太子によって開かれた寺と言われています。
ここは鎌倉時代末期、足利尊氏に攻められた六波羅探題であった北条仲時という人が、皇族を連れて鎌倉に逃げる途中、進退窮まって主従430人以上と自害した場所です。



鐘楼や本堂です。この裏手にある山に、主従の供養塔が立っています。


五輪の塔が所狭しと並べられています。かなり静寂な雰囲気でした。

ちなみに北条仲時のお墓はさらに奥の山である六波羅山に移されており、五輪の塔が建てられています。流石にそこまで行く体力はありませんでした。

さて、いい時間にバスがあったので駅までピューっと帰りました。

駅西口から少し歩くと田園風景。新幹線が止まる駅とはとても思えない。。。

この田園をとぼとぼ歩くと一つの祠があります。これがどんな祠かというと…
大谷吉継首塚です。
大谷吉継といえば、ハンセン病を患っていながら関ヶ原の戦いに西軍として従軍、小早川秀秋と交戦して討ち死にしました。
実はこの時首が発見されず、一説として従軍していた僧の祐玄が首この地まで運び、埋めたという伝承が残っています。
それを示す塚となっています。

さて、最後に駅の東口にある2つの寺社に行きます。2つとも東口から歩いてすぐです。
参道をテクテク歩いて行きます。

湯谷神社と太尾山城です。太尾山城は山城で山の尾根に沿って築かれています。織田信長浅井長政の戦いの舞台となりました。
流石に登る時間も体力もなかったので案内板だけ…(この時点で足はもうボロボロでした。蓮華寺まで歩いたのが良くなかった。というか京都も歩きっぱなしだった)

もう1つが青岸寺です。開基は婆娑羅大名として知られる佐々木道誉です。一方で風雅の道も心得た人だったらしく、この寺も枯山水庭園が国の名勝となっています。

庭内にはキリシタン灯篭と呼ばれるものがあります。織部灯篭とも呼ばれており、一般的な灯篭とは形が異なるようです(どこがどう違うのかよくわからなかった…)

庭の全景。あーなるほどという感想しか出てこないくらいにはこの風流を解する心を持ち合わせていませんでした。ごめんなさい。

という感じで米原駅を散策しました。
駅前には平和堂というデパートもどきと山内農場と東横インがありましたがほかにはなんもなかったです。

ですが城や神社などそれなりに史跡もあるため、京都に行く予定がある人はぜひお立ち寄りください。


おまけ

駅前にある広場のベンチ、なんと非常時にはかまどになるようです。駅前キャンプはれそう。

京都聖地巡礼とノリノリな坊さんと転職お礼参り(旅行前編)

どうも
三連休中日、湧き上がる欲求を抑えることが出来ずついに来てしまいました。


はい、京都です。もう何回来たのか数えるのやめました。いっそ住みたい。

とりあえず巡ろうと思ってる史跡の最寄駅に行くために地下鉄へ。

途中こんなポスターが。

お坊さんノリノリ過ぎでしょ。お坊さんに会いにいこうとか会いに行けるアイドルと同じノリで騒いでいます。

しかもPR動画ではお坊さんが熱演してるとか、完全に従来のお坊さんの概念をデストロイしにきています。

さて、そんな知恩院、ライトアップ紅葉は如何程かというと、実に綺麗です。
お坊さんが騒ぐのもわかるくらいにほんと綺麗です。僕も去年(一人で)来ましたがライトアップされた紅葉は見る価値ありと断言できます。

是非ともこのブログを読んでる人は大切な人と見に行ってもらいたいものです。

さて、地下鉄で向かうは竹田駅

この駅から北に向かって歩いて行きます。
上に高速道路が通っているためそれに沿って歩いて行くと…
ありました。白河天皇御陵です。
白河天皇といえば「院政」で有名ですね。
周りを車がビュンビュン通る中大変厳粛な雰囲気を放っています。
この陵を横目に交差点を右に曲がってまっすぐ行くとこんな神社があります。
城南宮という神社です。
創建年は不明ですが、京都御所の裏鬼門を守る神となったことから貴族の方違の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されるようになりました。

この神社、明治維新ではもう一つ役割を持ちます。というのもこの神社が鳥羽伏見の戦いにおける官軍の本陣になります。

鳥羽伏見の戦いといえば、幕末に旧幕府軍と新政府軍が初めて戦った戦争です。
今やってる大河ドラマ西郷どん」でも先日放映されていました。

今回はこの鳥羽伏見の戦い聖地巡礼を行おうと思います。

なおこの戦争、戦線がかなり広いため徒歩と電車でカバーできる範囲で紹介していきます。
参道にはいくつか神社がありますがこの参道にはかつて大砲がズラリと並びここから幕府軍を砲撃したそうです。

ちゃんと鳥羽伏見の戦いの案内板もありました。錦の御旗についても解説されていました。


本殿と舞台です。
とりあえず転職先がホワイトであることを祈りました。南無南無

この城南宮の近くには鳥羽離宮跡があります。
もともとこの鳥羽は貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名で古くから鳥羽には貴族達の別邸が建ち並び市が立つなど、都市として発達していたそうです。

そんな鳥羽で作られた離宮後も戦場となりました。


離宮後にはこのように戦いを示す案内板が置かれています。



今の鳥羽離宮はただの原っぱになっていますがこれでもほんの一部、かなり大きな邸宅だったようです。
さて、戦争に関する案内板を読むと、この近くにある小枝橋で戦端が開かれたそうです。
その小枝橋は今コンクリの橋になっていますが橋の入り口にはきちんと戦跡を示す石碑が建っています。
そしてこれが現代の小枝橋。

川を隔てて両軍がにらみ合っていたようです。

この辺り一帯は鳥羽伏見の戦いにおける"鳥羽方面"の戦いでした。本当は淀とかの方まで戦線は伸びていたのですが時間的な都合で断念。

そこで"伏見方面"の戦いを見に行くことにしました。
竹田駅から近鉄ですぐに行けます。桃山御陵前で降ります。ここは伏見の中心地のためかかなり賑わっています。

さて、伏見の戦跡を見る前にちょっと寄り道します。
桃山御陵前駅のすぐ近くにある商店街を抜け左に曲がると一気に町の様相が変わります。
「龍馬通り」と名付けられたこの通り、雰囲気的に江戸の香りがするのですがなにやら坂本龍馬と関係があるようです。
通りにあった店のシャッター絵。酒は飲んでも飲まれるな。うん、たしかに。

と、こんな絵を見つつズンズン進んで行くと龍馬との関係を示す史跡が出て来ました。

ジャジャン!!寺田屋です。
寺田屋といえば寺田屋騒動が有名です。薩摩藩の過激派がこの旅館に溜まっていたのを同じ薩摩藩の鎮圧勢が襲撃、過激派を一掃する事件です。
さらにその後、この旅館に泊まっていた坂本龍馬奉行所の人間が襲撃、のちの奥さん、お龍さんの決死の報告でなんとか難を逃れます。

ただこの寺田屋、雰囲気的に当時のまま立っているように見えますが実際は鳥羽伏見の戦いで焼けています。なので館内にある刀痕などは後から観光用に付けられたものです。

それでも入館券が土佐藩の藩札を模しているなどなかなか粋な計らいがされています。
入館料は400円です。

ちなみにこの伏見、月桂冠など酒蔵もそれなりに多く、お酒の試飲も楽しめるようです。

では、本来の目的地に戻りましょう。
駅の方に戻るとなにやら赤い鳥居が目を引きます。

これは御香宮神社の鳥居です
門も立派な構えですが、これは近くにある伏見城の門を移築したものなんだとか。お祭りの真っ最中らしく人で賑わっていました。

そんな御香宮神社、鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の本営となりました。この方面では主に新撰組会津藩と戦ったそうです。
境内にはそれを示す石碑も立っていました。

この御香宮神社を山の方に向かって歩いて行くと伏見桃山城があります。


台風の影響で落石の心配があるらしく中には入れませんでした。残念(簡単に行けるような書きぶりですが、山登りなので軽く20分以上登って行くことになります。入れないテープを見たときはショックで大泣きしそうになりました。)

この桃山、天守閣がありますが模擬天守です。
関ヶ原の戦いの前哨戦では、この城を石田三成が攻めて、城主であり徳川家臣である鳥居元忠を討ち取りました。

この城の近くには明治天皇陵、桓武天皇陵があります。
桃山御陵前駅の近くにある料亭では、窓の格子に当時の弾痕が残っています。

ということで今回の鳥羽伏見の戦い聖地巡礼はここまで。他にも色々あるのですがまた次回にとっておきます。

ここでちょっと前から行きたかった場所に行こうと思います。
桃山御陵前駅の近くにある京阪から八幡市駅を目指し、そこからケーブルカーに乗ります。

たどり着いたのはここ
エジソンが日本の竹を電球のフィラメントに用いたことを示す記念碑と、
石清水八幡宮です!

石清水八幡宮は勝負の神様と言われ、さらに源氏一門の氏神として尊敬されてきました。
ここで、転職先でうまくやって行けるよう祈念しました。南無南無。
それにしても赤い社殿が青空に映えて良い雰囲気でした。

さて、転職にあたって、かなり念入りにお参りしていた神社が京都にはあります。
それがこちら。



安井金比羅宮です。
今回はそのお礼参りをします。

電車だと祇園四条駅で降りるのが1番行きやすいと思います。

この神社、何がすごいって悪縁切りが物凄いんです。テレビでも取り上げられるくらいかなりのご利益があります。

かつて私もこんな札を奉納しました。

支社から出てホワイト部署どころか会社ごと変わりましたからね!!
ここの御利益ほんとすごいですよ。また転職するときはお参りしますよ。

こんなにすごいこんぴらさん。いったい誰が祀られてるのかと言えば、崇徳院になります。

崇徳院は1156年、保元の乱で敗れて讃岐の国に配流され、そこで怨霊になったと言われています。
日本の御霊信仰では、位が高い人ほどヤバイ怨霊になると言われており、皇族かつ上皇である崇徳院は日本史上最強の怨霊と言えます。貞子や伽倻子なんて目じゃありません。

そんな崇徳院が祀られているだけあって、その御利益に預かろうと沢山の参拝者が訪れます。

とりあえず転職の成功のお礼と次の場所での多幸を祈りました。

実はこれで京都編は終わり
次は東海道新幹線でも地味な駅を散策します。(後編に続く)

長篠城とコミュ力

どうも

土日が台風の影響でぐっちゃぐちゃになる昨今ですが皆様いかがお過ごしでしょうか?

僕はといえば先日証券アナリスト試験の一次試験があったのですが見事に台風が直撃、帰宅困難になるのを防ぐべく半年繰り延べることにしました(ほんとは準備をあまりしておらず台風がいい具合に来てくれたと思ったのは内緒)

さて、今回は愛知県新城市にあるこの城を紹介します。

長篠城です!

長篠城よりも長篠の戦いの方が城知名度がある気がします。
1575年、織田信長徳川家康連合軍と武田勝頼がこの城を巡って戦いました。いわゆる鉄砲3000丁、三段撃ちで織田信長が武田をフルボッコにしたと言われています。

実際のところは鉄砲は1000丁くらい、しかも堀や柵を作りまくって野戦築城を行い、武田勢が撤退するところを追撃して大勝したのが最近の定説だそうです。

さて、この長篠城ですが、JR飯田線 長篠城駅から歩いて行くことが出来ます。車窓からも長篠城を見ることもできます。


駅から降りるとさかさ桑という勝頼に関する伝承を知ることが出来ます。
長篠城は駅から歩いて20〜30分くらいです。
城址なので、堀がきちんと残っています。
この長篠城は行ってもらうと分かるのですが川に沿って築城され、さらに切り立った崖のようになっているのでかなり防御に適した城と言えます。実際勝頼も落とすことが出来ませんでした。
長篠城には資料館もあります。
日本100名城にも指定されており、スタンプはこの資料館で押すことができます。

本丸後です。普通の広場みたいになっていますが結構広い感じです。
城址自体は宅地化が進み、いくつかの郭も地下に埋まってしまっていますがこのように案内はきちんとあります。

長篠城については、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という人の逸話が有名です。

武田勝頼長篠城を包囲した際、城内では主人の家康に援軍を頼もうということになり使者の選定が行われていました。

しかし城は厳重に包囲されており無事抜け出せるかの保証もありません。そんな中で下っ端足軽の強右衛門が使者に立候補し、家康の元に向かいます。

なんとか包囲を切り抜けることができ、家康の元に着くとそこには同盟者の信長も大軍を引き連れて待機していました。信長、家康に長篠城の窮状を訴えた強右衛門は、危ないから自分たちと一緒にいるようにという家康の制止を振り切り、援軍が来るということを城に伝えようとすぐに戻ります。

しかし行きのように上手くいかず武田に捕縛されます。

事情を聞いた武田は、包囲を一回はくぐり抜けた勇気を称して、「城方に援軍は来ない、城を明渡せと伝えろ。そうすれば高禄で雇ってやる」と誘います。強右衛門は了承し、翌朝城の前面に引き立てられました。

城方も見守る中、強右衛門は大声で「後数日で援軍が来る!それまで持ちこたえろ!」と呼びかけます。それを聞いた武田はその場で強右衛門を磔にしますがその知らせに城兵は息を吹き返しなんとか城を守り抜きます。

この功績から長篠城主、奥平貞昌は家康の長女を娶り、さらに信長から一字をもらい信昌と名を改めます。子孫も大名として明治維新まで続きます。強右衛門の子孫も徳川一族の家臣として今も続いています。

なお、この強右衛門の行動は敵方の武田勢にも感動を与え、武田家家臣、落合左平次という人はこの強右衛門が磔にかけられている絵を旗指物したと言われています(この指物の複製が今も伝わっている)

そしてさらに、JR飯田線の駅「鳥居駅」はこの強右衛門の最期の地となったことから命名されました。駅名までになった鳥居さん、強い。

…話が長くなってしまいました。

この長篠周辺では討ち死にした武田家臣の墓も多くあります。

そのうちの1つがこちら

馬場信房という人のお墓。この馬場さんは武田家の中でも重臣で武田四名臣の一人に数えられています。(他の三人は山県昌景、内藤昌秀、高坂昌信

勝頼が撤退する際にしんがりとして最後まで戦場に踏みとどまって奮戦、討ち死にします。

その姿は信長にも賞賛され、信長公記という書物でも激賞されています。

それでは長篠合戦の主戦場に行ってみましょう。

最寄駅は「三河東郷駅」となります。

この駅から歩くこと30分、看板が出てきます。

主戦場といっても450年も前の話のため今は田んぼに家が何軒か建っている、といった感じです。
ただいたるところに武田家の家臣の墓や供養塔が建っています。激戦だったことが伝わります。

武田側から見た、織田側の陣地です。山と山に挟まれた土地で大軍を動かすにはかなり手狭な印象を受けます。

復元された馬防作です。高さが結構ありました。

そしてまた一つ武将のお墓が。

この墓は先程出てきた武田四名臣の一人、山県昌景とその家臣たちのお墓です。

この山県昌景、兎唇だった、小柄で醜男だった、など容姿については散々な言われようですが元祖赤備えの一人です。この昌景の兄である飯富虎昌という人から始まった武田の赤備えはこの昌景に引き継がれ、武田滅亡後は彼の家臣団が徳川家臣、井伊直政に引き継がれ井伊の赤備えとなっていきます。

さらに同じ武田家臣だった真田昌幸の次男、真田幸村も赤備えを率いて大坂の陣を戦います。

このように赤備えは勇猛の証として尊敬されていました。

それにしても飯田線、意外と史跡たくさん持ってるな…

おまけ
岡崎にある城址、百々城に行ってきました。
読み方はどうどじょうです。

七所神社のすぐ近くにある住宅地に突如現れる森林。もう怪しさ満点、お城の匂いがプンプンします。

しかしこの城、なんと個人宅の敷地内。さて、どう入るか…

…ピンポーン!!

はい、潔く「お城見せてください!」と頭下げました。お城見るために個人宅に訪問するのは初めてです。いや緊張した。。。

ただ、かなりいい人が対応してくださり、無事見ることが出来ました。

この城の城主は青山さん。
青山さん?誰?という方がほとんどだと思いますが徳川家康の家臣として青山忠門という人が各地の合戦で活躍、さらにその子青山忠成が関東奉行として江戸のまちづくりに活躍します。

ところで都民の皆様、青山通りはじめとする青山という地名、由来はこの人青山忠成です。
彼の屋敷の一部が今の青山に当たります。ちなみにこの屋敷、かなり広大な敷地を持っていたそうです

土塁も見ることができました。住宅地にポツンとある城址、これもなかなか趣がありました。