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葛西城!

どうも

今回は東京葛飾区にあります葛西城に行ってまいりました。

ちょうど近くで用事があって行きがけの駄賃とばかりに城攻めしてきました。

「あんなところに城なんてあったっけ?」と思う人も多いかと思いますがご想像の通り今は何も残っておりません。全て環七通りの地下に埋められています。

とは言っても石碑くらいはあるだろうと思うので行ってまいります。

最寄り駅は青砥駅になります。

駅前には商店街っぽい雰囲気も漂ってます。

環七沿いに歩くとなんかアンバランスなローソンを見つけました。

青砥駅から歩くこと20分、御殿山公園にたどり着きます

御殿と名がついている通り、徳川家康が鷹狩りの宿所としてここに御殿を建てたことに由来します。
ただその御殿も明暦の大火で焼失した江戸城再建のための資材として供出され、その後は利用されませんでした。



がっつり公園となってますが、葛西城の復元図がありました。
こうしてみるとかなり大きな城郭だったことが伺えます。



青砥藤綱城跡という石碑もありました。
もともとこの地には葛西氏という一族が館を構えていましたが、その後青砥藤綱という鎌倉時代の武士が館を構えた場所とも伝えられています。

青砥藤綱、知らない人も多いかと思いますが、鎌倉幕府評定衆の1人として活躍し、公正な裁きを行った高潔な人物と今に伝わっています。

彼について一つ残っている逸話を紹介します。
彼が滑川を通る際に銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させた。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支が合わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えたそうです。

この話は太平記にもあり、戦前の教育でも使われたそうです。


その後、扇谷上杉氏、後北条氏と支配者が変わり徳川家康が治めることとなり先ほどの御殿へとつながって行きます。



環七通りが城郭を真っ二つに分断しており、反対側が葛西城址公園となっています。
まあ予想通りほとんど、というか全く遺構が残っていません。土塁くらい少しは残してくれればいいのに。

ただこの葛西城、道路を引く際に発掘調査も行われ、その際は漆器や人骨が出土したらしく、かつては遺構が残っていたようです。

東京にはこのように開発で失われた城郭がまだまだあるのでチョロチョロと調べていきたいです

退職の手続きと引越しのアレコレ

どうも

ツイッターで退職エントリも参考になるけど退職にあたっての手続きやら引越しについても書いて欲しいという意見が流れてたのであくまで僕の一時例ですが何かの参考になればと思うので書いておきます。ほんとざっくりですが…

・退職編
僕は8月下旬に転職先が決まり、まぁ11月くらいに新会社入社、10月は2週間くらい有給取ってゆっくり過ごそうと目論んでいたのですがそうは問屋が卸してくれず12月の社内行事の対応によりそれを全うするために退職が年末までずれ込みました。普通は2ヶ月あれば引き継ぎも終わって転職できるかと思います。


①退職の申し出
まずは直属の上司に報告しましょう。
僕は少しお時間くださいと課長に申し出て退職の旨を伝えました。そこから支社の上の方に伝言ゲームで伝えられて後日上の方と面談となりました。

ここで年度末の異動等を含めた慰留を受ける人もいるかと思いますが(僕も受けた)、その異動が本当に自分の意に沿うものなのか、また退職を申し出て仮に慰留を受け入れた場合、今まで通り自分に接してくれる人たちなのかはそれぞれの組織によって異なると思うのでよく考えてください。

ただ慰留を断る場合は丁重に、退職に至った経緯等も含めて出来るだけ誠実に対応しましょう。どんなに憎い人たちであっても、立つ鳥跡を濁さずです。


②退職届
社内の規則によると思いますが大体退職日の1〜2ヶ月前に出すものと思います。

ちなみに僕は12月中旬まで社内イベントの運営で忙殺されて居たので退職2週間前に出しました。。。

③社内手続きの諸々
多くの会社には退職時に必要な手続きが一覧になってるかと思います。それに沿って手続きしましょう。総務や人事担当の人がいればその人に聞くといろいろ教えてくれるかと思います。

健康保険証の返却や借り上げ社宅の引き払いと立ち会い手続き、社内保険の解約など種々の手続きがあります。持ち株会に入っている人は売却手続きを忘れずに行いましょう。

これは僕も忘れてしまったのですが、雇用保険被保険者証がどのような手続きで入手できるかをちゃんと確認しましょう。次の職場で提出することになります。
仮に紛失してもハローワークに行けば5分くらいで再発行してもらえますが手間であるのは違いないので忘れないようにしましょう。

④引き継ぎ書作成

退職する以上どこまで用意していても100%周りに迷惑をかけます。僕は事務職だったので作成していた資料の作成手順を口頭で引き継ぎされていましたがそれを全て文書化してました。
エクセルで作成している資料があるならばマクロで自動化させるなど出来るだけ負担をかけないよう努力しましょう。

⑤最終出社日
いつも通り仕事をして、定時に上がれるように準備は進めておきましょう。
社内資料は廃棄、使用していた机の掃除など片付けも忘れずに行い、お世話になった方達への最後の挨拶はちゃんとしましょう。

人生どこでどんな再会をするか本当にわかりませんのであいつの辞め方は最悪だった、などと後ろ指刺されないようにしましょう。

・引越し編

①新居探しと引越し屋さん探し
退職日が決まったら出来るだけ早いうちに動くといいです。

新居については各自それぞれにこだわりがあるかと思うのでこだわりが多い場合は出来るだけ探す時間を長めにとりましょう。

ちなみに僕は
・家賃6万5千円まで
・駅から徒歩10分以内
・家の最寄りから会社最寄駅まで30分以内
・部屋の広さは問わないが木造は嫌だ
・徒歩5分圏内にラーメン屋がある

という点で探しました。最後の点は譲れませんでした。結果全て満たす新居(部屋は狭い)を見つけました。

ただしあまり早く見つけ契約すると、家賃をその分大目に払わなければいけない(物件や不動産屋さんによって異なる)場合があるので費用はちゃんと確認しましょう。僕は25万くらい新居手続きで使った気がします。

続いて引越し屋さんですが、年末や年度末は引越し屋さんも忙しく値段も高くなったりそもそも予約が取れない等の事象も起きやすいのでこれらの時期に退職する場合は早めに押さえましょう。

ちなみに僕は大学時代栃木から仙台、仙台から栃木への引越しでも使ったアート引越センターを使いました。費用は9万くらいでした。

②ガス、水道、電気手続き

出る時はもちろんですが、入居先の手続きも忘れないようにしましょう。入居1週間前くらいを目処に連絡しておきたいです。

③転出届と郵便局の転送手続き
転出届の手続きは忘れがちですがちゃんと行いましょう。役所によりますが平日しか手続きできない場合もあるので昼休みを使ったり、場合によっては半休を取るなど対処しましょう。

また郵便局への転送届はインターネットでも行えます。なので無理に出向く必要はありません。
転送期間は1ヶ月ですがクレジットカードの明細書や購読している雑誌がある人はきちんと手続きしましょう。(クレジットカードについてはちゃんと住所の変更も行いましょう。)

④荷造り

どんどん箱に詰めていきましょう。ダンボールは引越し屋さんがサービスでくれることも多いです。

家に本が大量にある人は間違ってもLサイズのダンボールにぎっちり詰めることだけはやめましょう

本は本当に重いんです。シャレじゃなくて。
引越しの時地獄を見ることになります。

大きいダンボールに詰める時は6割くらい本を詰めてその上には衣類を詰めるなどしましょう。

また引越しを極力短時間で終わらせるために机やベッドの解体は自力で出来る範囲でやっておきましょう。

また、重要な書類(年金手帳や銀行の通帳など)はまとめて一つのダンボールに詰めておくと探す手間が省けるのでおススメです。


⑤住民票の異動と運転免許証の更新

引越し後の話ですが新しい街の役所に転入届を出しましょう。そしてそのまま住民票を出してもらいましょう。

その足で警察署に行けば運転免許証の住所書き換えが行えます。こうしておけば身分証として新しい街でも機能します。

⑥新しい会社まで行ってみる

これは別に必須ではありませんが最初の出社で遅れないように事前に道の確認とおよその時間は確認しておきましょう。当初想定していた道順よりも近道が見つかることもあります。


以上、僕が記憶に残っている退職、引越しについて書かせていただきました。

基本単身だとやることは多くてもそこまで大変なことはないかと思います。部屋の荷物が多いよって人はちょっとずつ整理はしておきましょう

おわり

転職してから約3週間くらい経ちました

どうも

何回かブログで言ってるように今年から新しい会社に転職しまして、3週間くらいたったので前職と比べてどんな感じか報告しようと思います。

ちなみに今はデータ分析の部署で旅行保険や自動車保険に関わることをやっています。正直楽しいです。

1.シフト勤務、在宅勤務が定着してる

まず驚いたことがこれ。前職でも一応フレックス制はありましたがあっただけで活用している人はいませんでした。しかし現職ではみんないい感じに時間をコントロールしてます。9時始業ですが普通に時間をずらしてくるのでみんなが揃ってることがありませんでした。

同様に在宅勤務もかなり活用されています。確かにデータ分析という職務内容上黙々と作業することが前職より増えたので自分が集中できる環境で仕事させるというのは理に適ってると思いました。

2.チャットワークがフル活用されてる

前職ではセキュリティが厳しく外部のサービスは一切使えなかったのですがこっちでは普通に活用されていました。

メールと違って話題ごとにカテゴライズされているため自分が欲しい情報や連絡事項がすぐに共有されていきます。
休みやシフト勤務の連絡もこのチャットで報告すれば事後申請ができます。

おかげで前職では1日200通くらい来てたメールが1日20通くらいに激減しました。(ちなみに僕が痔瘻で入院した2週間、メールの件数が溜まりに溜まってその整理だけで半日以上潰しました。)

3.インターネットの全サイトが観れる

前述の通り前職では社内セキュリティが厳しくてYouTubeなんか開こうとした暁には警告されてブロックされてましたがこっちでは普通に開ける、しかもツイッターも開ける。ヤヴァイ。

だからといって見るわけではないですが普通につながることに感動しました。

4.英語を読む機会が114514倍に増えた

僕はデータ分析のツールとして統計ソフトのRを主に使うのですが、作業中にエラーを吐かれる→エラー内容を調べる、となるとどうしても英語の解説が出てきます。

いや、あんな英語中学生でも読めるぞって言う英語強者の意見はガン無視して言わせてもらうと僕みたいに英語の勉強努力を全面放棄、日本語に絶対服従日本語万歳の人種にはほんと辛いわけです。

おかげでちゃんと英語を勉強しようって気になりそれまで1日2分くらい英語勉強に当てていたのを10分に増やしました。

5.怒っている人がいない

これについては前職が、というより上司とかにも左右されると思うのですが、前職ではリーテイルで生保の営業企画の部署にいたので業績が悪かったり仕事が遅いともちろん怒られます。会議では人前でそれなりに詰められたりもするわけです。

ただ現職ではこれまで怒られてる人を見たことがないのです。みんな優秀なのかそれとも怒り方を知らないから怒らないのかわかりませんが良くも悪くもゆったりとした雰囲気があります。あまりに怒られないお陰で怒られたくなるという症状が出てきました。

ただ現職では上司がきちんと部下の仕事を把握、管理しているため進捗確認がそれなりの頻度であるためフォローがしやすいのかなと思いました。

6.お昼時間がフルで取れる

転職してから昼休みが取れるようになりました笑
前職では仕事量も多く、そのくせ残業規制も厳しく昼休み返上で時間内に終わらせるということをしていましたが現職ではみんなちゃんとお昼に行ってる。しかも1時間。(逆に現職では残業規制がきつくはないためダラダラと仕事をすることもできます。)

お陰で余計に食費がかかることになりましたが少なくとも健康的な生活になったことは確かです。

7.興味があることを仕事をしたことによる精神的ゆとり

転職したことによる一番得られたものは多分これ。

新卒で文系就職すると外資でもない限り総合職採用で勤務地や業務内容が選べません。

いやそれを承知の上で入ったんでしょ?って言われたらそれまでですが(僕も耳にタコができるくらい言われましたが)やはり実際に働いて見ると思ってたのと違う、あるいは全然希望していない部署に配属になって合わない、ってことも起きるわけですよ。

資産運用やデータ分析を希望してそれを伝えて入社したのに入ったらおばちゃん管理とパーティー・旅行のアテンドと余興が業務だったりするわけですよ。

転職活動では自分がやりたい仕事にフォーカスして応募できるし面接官も一緒に仕事をする上司が行うことが多いので上司の雰囲気も見て決められるのです。

お陰で僕もちゃんと考えた上で入社を決めることが出来、自分がやりたかったデータ分析や興味のあるプロジェクトに関われたりすることができて家での自主的な勉強や趣味を行う余力が生まれましたし日曜夜にサザエさんを見ても鬱になることがなくなりました。(今のところは)

もちろん一度入社し、与えられた仕事を最後までやり抜くというのはすごく大切ですしそれに越したことはないのですが、(というか僕もそうしたかった)そこで頑張っても自分のやりたいことができるかわからない、もしくはやりたいことが変わったという場合には転職もありだなって思いました。

あと、新卒就活市場では出てこない企業も転職市場にあったりするので色々勉強にもなりました。(現職も新卒採用はしてないしこれからも博士採用は除いてする予定はないみたいです)

8.やっぱり金融総合職の福利厚生はヤヴァイ

さて、ここまでちょいちょい前職をdisってしまいましたが悪いことばかりではありません。

退職して気づきましたが、恥ずかしながら自分がいかに手厚く守られていたかを知りました。

まず借り上げ社宅のおかげで廉価で10畳の部屋に住める。しかも風呂トイレ別。すごい。

そして社内の貯蓄制度、持ち株制度(最近株価が下がり気味だけど)充実した研修。

確かに人を育てようとする意識は高いと感じました。それも将来経営に携われるよう様々なことをさせようとしていました。

そして30代で到達する年収1000万

現職ではそこまで福利厚生が手厚いわけではないし年収も1000万には届かないでしょう。

この点は少し惜しいことしたなって思いました。


セキュリティが厳しいのもお客様の情報を管理している以上当たり前のことですし、メールが多いのも理由があって生保の姐様を管理する以上、給与管理や資格の確認、そして日々の成績管理など共有しなければいけないことが山のようにあるからです。

営業を経験されたことのある人は思い当たる節がある人もいるかと思いますが、時期や業績によって売らせるものが変わるためいろんな指示が飛びます。私は主に飛ばす側でしたが受け止める側はたまったものではないと思います。

今思えばもうちょっと良い振る舞い方や改善があったのかなとも思いますが…

結果として辞めたわけですが、今の国内生命保険会社が、生保のおばちゃんと呼ばれる営業部隊によって支えられている以上その企画管理というのは会社の屋台骨を支える責任ある仕事な訳です。


もし、生保の総合職で辞めようかなって思ってる人はこの点も少し頭の片隅に置いていただければなと思います。

さて、最後に現職で一番嬉しかったこと…


9.パーティー・旅行がない

行事がないことは企画する業務もないわけです

これはもう正義、大正義、素晴らしい

おわり

川越城!!

どうも

先日西武新宿駅に行ったらこんな自販機がありました

アニメ「月がきれい」のイラストが描かれた自販機です。
小太郎くんと茜ちゃんが住む街が川越だったのですが、西武新宿線を使えば川越まで1時間くらいで行けることをアピールしていたのかもしれません。

ということで、僕も蔵の街と川越城を見に行きました。

ちなみに月がきれい、すごいキュンキュンするアニメですが、あまりにもキュンキュンしすぎて恋愛偏差値の足りてない僕は毎回心臓が止まり白目剥きながらみてました。





ということで本川越駅から歩くこと10分くらいで昔ながらの建物が立ち並ぶ区画に着きました。
川越は江戸時代からさまざまな特産品を産出、それを江戸に供給していたため「江戸の台所」と呼ばれていた歴史があります。
城下町も栄え、川越藩は代々親藩譜代大名が封じられたこともあり幕府からも目をかけられていた土地でもありました。

スターバックスコーヒーがちゃんと景観に考慮した外観をしていたことが印象的でした。



蔵の街を抜けて市役所に行くと太田道灌銅像が立っています。

この太田道灌こそが川越城を築いた人です。
室町時代(1457年)、関東地方は古河に本拠を置いていた古河公方南関東を勢力下に置いていた関東管領上杉氏の対立の最中にありました。

時の上杉家当主、上杉持朝から命を受けた太田道灌武蔵野台地の北端に位置する川越に城を築きました。

これが川越城です。

元々はかなり大きな城だったようですが明治に入ってから廃城令によって多くの施設が取り壊しになり市街地化していきました。


本丸に向かう途中には当時の堀を整備し直して公開しています。かなり深い堀が掘られていたことがわかります。



川越城といえばよく出てくるのが本丸御殿です。川越城天守はなく、富士見櫓が天守の代わりをしていました。この本丸御殿は江戸時代末期に作られたものです。





内部は撮影可能です(しかも入館料100円!!安い!!)

家臣の詰所が設けられ、使用されていた鬼瓦が展示されていました。

この本丸御殿も多くの部分が取り壊されましたが大広間がきちんと残っているのは高知城川越城だけで全国的にもかなり貴重な遺構です。




川越城から北西に向かって歩くと東明寺があります。

ここ川越が戦場となった戦が戦国時代に行われました。

それが1546年に起きた川越夜戦です。

関東地方では古河公方と上杉家が対立していたと前述しましたが、駿河今川家に仕えていた伊勢新九郎(後に北条早雲として知られる)が小田原を本拠として以降、代々関東地方を制圧し始めると古河公方と上杉家は危機感を覚えともに連携するようになります。

そして北条家三代目、北条氏康家督を継ぐと、当時川越城を北条家に奪われていた上杉家と古河公方足利家は連合して川越城に攻めかかります。その数約8万。

対する北条側は福島綱成が約3千の兵で立て篭もりますがかなり苦しい戦いを強いられ氏康に援軍を要請します。

氏康は8千の兵で後詰に向かいますがそれでも兵力差はほとんど変わりません。

そこで氏康がどんな戦法に出たかというと土下座戦法を繰り返しました。

何度も相手側に有利な和睦交渉、さらには降伏まで申し出て相手を油断させていきます。

当初は拒んでいた足利・上杉軍ですが何度も申し込まれたため徐々に楽勝気分が軍に蔓延し出します。

氏康はこの時を見逃しませんでした。
夜陰に紛れ密かに軍を動かし足利側に夜襲を仕掛けます。さらに城側からも打って出て上杉軍に襲いかかります。

これに足利・上杉軍は大混乱して、扇谷上杉家主上杉朝定が討ち死に、山内上杉家当主上杉憲政が戦場から離脱、古河公方足利晴氏もなんとか逃げることができました。

この時の激戦が行われたのがここ東明寺、境内にはその石碑も立っています。

この戦の後、北条氏康は関東における確固とした地位を固め関東制圧を行います。

そして負けた古河公方は北条家に降伏することを余儀なくされます。そして山内上杉家の当主上杉憲政はしばらくして越後に亡命、越後国主、長尾景虎に援助を要請します。

この長尾景虎がのちに上杉の家督を譲られ上杉謙信となります。

伝統的な街並みだけでなく史跡も多い川越、是非お越しください。

謙信ごっこ(小田原城と鶴岡八幡宮)

どうも

皆さんはもう初詣に行きましたか?

栃木や岡崎に住んでいた時はだいたいその土地の神さまというような由緒ある神社が1つあったのでそこに行っていたのですが東京となると無数の大神社があってどこに行けば良いか悩ましい。お陰で僕はまだ初詣に行けてませんでした。

そんな時、自分のツイッターアカウント名を見ると「関東管領れー丸」と書いてありました。

岡崎にいた時は「三河守れー丸」というようにその時住んでいた土地の旧国名に当てはめてアカウント名を決めていたのですが、東京に来た嬉しさで関東全土を治める役職名を不遜にも冠していたのです。

ちなみに関東管領とは、室町時代に関東を治めるために幕府が置いた出先機関「鎌倉府」を補佐する役目として代々上杉氏に世襲されてきた役職です。

最後の関東管領は、ゲーム等でお馴染み、あの上杉謙信なのですが、彼は上杉氏の家臣、長尾氏の出身でした。初名は長尾景虎といいます。
しかし当時の関東管領上杉憲政が小田原北条家に攻められて越後に亡命、関東管領と上杉の名を継いで北条を倒してほしいと泣きつかれます。

これを了承した謙信は以後の人生で何度も関東への侵攻を行いました。

さて、この謙信が関東管領に就任する際、小田原城を攻め、越後に帰国する途中に鶴岡八幡宮にて関東管領就任式を行いました。


関東管領を名乗るからにはそれなりに手順を踏まなければいけない。今回はこの謙信の手順を参考に正式に関東管領に就任しようと思います。



ということで小田原城へ。ちゃんと城攻めから手順を踏んでいきます。

小田原駅に着いて城がある出口とは逆方向に降りると北条家初代、北条早雲銅像が迎えてくれます。

城とは逆の出口に出ていますが一旦は城に向かって歩いていきます。


途中このような道標があります。
江戸時代、この近辺がどんな町だったのかを教えてくれます。

トンネルを抜けて線路を潜ると八幡山郭跡という看板と高台があります。

小田原城は戦国時代随一の広さを誇っていました。
その理由は総構えと呼ばれる、街全体をすっぽり城の一部として囲っていたからです。

小田原城主北条家は1590年に豊臣秀吉による侵攻を受けます。その際大軍の包囲に対処するため進撃の巨人よろしく街全体を堀で囲ったのです。まさにウォール・オダワラ。

その際に作られた堀や土塁の跡が今でも街に残されているのです。

今いる場所もまさにその発掘が行われた場所だとか。



この高台に登ると小田原城天守閣を間近に見ることができます。

城を横目に進んでいき、途中城から離れて西に向かって歩いていきます。競輪場を横目に歩くとこのような神社が。



大久保神社です。

北条家が倒された後、関東には徳川家康が移封されます。彼は本拠地を江戸に定めたため小田原には重臣大久保忠世が赴任しました。

ちなみに愛知県岡崎市にはこの大久保一族発祥の地が残っています。

大久保氏による治世を讃えこのような神社が作られました。

神社を超えてさらに西に向かうとこのような案内が。

総構えを作る際に築かれた空堀です。小田原城はかなり広範囲に作られたためこのような空堀もそれなりに残っています。

かなり凹凸が激しいですがこの堀を渡っていかないと城には辿り着けません。しかもこの堀切は城から約1.5キロのところにあるため城に着く前にかなりの損害を受けてしまいます。

それにしてもかなり保存状態がいいです。
堀切がある高台からの眺め。海が見える!



近くには土塁の跡も残っています。小田原城はこのように空堀と土塁をふんだんに使ってその防御を鉄壁にしていったのです。

さてここから小田原城本丸を目指します。

途中山角天神社があります。
菅原道真を祭っているそうですがもう一つ、ある方の銅像が置かれています。

それがこの方、瓜生外吉

誰?って言う人も多いかと思いますが、明治時代の海軍軍人で日露戦争の仁川沖の海戦で活躍して海軍大将、男爵にまで上り詰めます。

この人の別邸がすぐ近くにあったのだそうです。


さらに同じ道沿いにはもう一つ史跡があります。
対潮閣です。ここは坂の上の雲でお馴染みの秋山真之の終焉の地です。
今は個人宅になっています。

ここからさらに城に向かって歩いていくと箱根口から城内に入れます。


門をいくつか抜けていくと天守閣がお目見えです。中は博物館になっています。

銅門(あかがねもん)から外に出ようとするとこのように枡形虎口となっています。

外はしかも水堀があります。先ほどの堀切といいとことん人を殺すための機能に満ち溢れたお城です。
城を出て駅に向かって歩いてさらに飲屋街っぽいところを抜けるとこのような場所が。

北条氏政・氏照兄弟のお墓です。

豊臣秀吉小田原城を開城した北条家ですが、当主の北条氏直は助命されました。

しかし開戦の責任を取る形で主戦派と目されていたお父さんの北条氏政、そして彼の弟北条氏照切腹することとなります。

小田原城をぐるっと回る形で今回は歩いてみましたが、近代的な石垣と天守閣を持つ小田原城とはまた違った側面を発見できた城攻めでした。

小田原城攻めがひと段落したので次は鎌倉鶴岡八幡宮に向かいます。


さすが鶴岡八幡宮、正月からそれなりの日にちが経つのに結構人がいます。

今年一年の多幸を祈り関東管領就任を報告しつつ、初詣なのでおみくじを引きました。

パカっ!

なんかあまり多幸感はない内容です。特に縁談。
気を取り直して行ってみたかった神社に行きます。
それがこちら


鎌倉宮です。こちらに祀られているのは大塔宮護良親王後醍醐天皇の皇子になります。元々はお坊さんでしたが父後醍醐天皇の倒幕戦争に参加し、自ら軍を指揮するなど勇ましい活躍をします。
鎌倉幕府滅亡後、護良親王と対立していた足利尊氏親王を鎌倉に幽閉します。

しかし鎌倉幕府の残党北条時行鎌倉幕府最後の執権、北条高時の息子)が蜂起、鎌倉に迫ります。(中先代の乱

この時鎌倉を預かっていた尊氏の弟、足利直義親王北条時行と結びつくのを恐れて親王を暗殺します。

長らく世間から忘れられていた護良親王でしたが、明治時代に入り明治天皇はこの親王の功績を讃えて親王を祀る神社を造るよう命じます。そうして造られたのがこの神社です。


神社の裏手には親王が幽閉されていたとされる土牢があります。
しかし最近の研究では屋敷の中だったのではという意見も出て来ているため真偽のほどはわかりません。

鶴岡八幡宮と違ってこちらは落ち着いた雰囲気、おみくじもまじめに、新年にふさわしい結果が出るのではないかという期待を込めて振ります。

パカっ!

末吉

…うん。末吉。正直微妙。

さて最後に向かうは宝戒寺。いぜん鎌倉巡りのブログにも紹介した、鎌倉北条氏の菩提を弔うために足利尊氏によって建立されたお寺です。(ここでスマホのバッテリーが残り1パーセントになるという驚異的な減少を見せたため写真はありません。ごめんなさい。)

ここで3度目の正直、大吉を狙っておみくじチャレンジ

パカっ!!!

またしても吉

なんなんでしょう、鎌倉の寺社仏閣にはおみくじに大吉を入れないという決まりでもあるのでしょうか?2019年が少し思いやられます。

このまま大吉を引くまで帰れま10をやっても良いのですがスマホのバッテリーが残り少なすぎるので帰りました。

小田原城鶴岡八幡宮、ひとまず両方回って上杉謙信ごっこしました。小田原城は広いし鶴岡八幡宮はたくさん人がいる。とりわけ両方解説するとやたら北条さんがたくさん出てくる。

新年早々とそれなりに濃い史跡巡りができました。

おまけ
書き初めです。今年はこれらの言葉を胸に日々を生きていきます。


伊賀上野城!!(と水口城)

どうも

写真フォルダを整理していたら行ったけどブログにまとめてない城の写真がちょいちょい出てきたので少しずつまとめていきたいと思います。

今回は伊賀上野城を紹介します。

伊賀上野城は築城名人として知られる藤堂高虎によって築かれました。

元々は寺院やこの地方を治めていた仁木氏の居館がありましたが、戦国時代に入って織田→筒井氏と支配者が変わっていきます。

そして筒井氏の時代に本格的な城が作られていきました。

しかしこの筒井氏が不祥事を起こしたため領地没収となります。代わりに移封されたのが藤堂高虎関ヶ原の戦いで家康が勝ち大阪の豊臣氏に対抗するため高虎はこの城を大改修します。

天守閣も築かれましたが嵐により倒壊、以後再建されていませんでしたが昭和に入り復興模擬天守が建てられました。



伊賀上野城に行くには伊賀鉄道上野市駅で降りるのが最も近いです。典型的なローカル線ですが車窓から天守閣を拝めます。

この城は平山城になるため駅から天守台まで行くには小高い丘を登っていく必要があります。
各所に長屋や台所の跡が残っています。


こちらが天守閣、訪問した際にはまだ修理中でした。
天守にある「忍び井戸」です。説明板によると、高虎は家康より大坂城攻略に失敗した場合は上野城に籠城する旨を伝えられ、水に困らぬよう小天守に深井戸を掘り、更に横穴を四方に掘って万一の際の抜け穴とし城下町と通じさせていたようです。


藤堂高虎といえば「高石垣」と呼ばれる高い石垣を持つ城を数多く作っています。

大坂城の高石垣とともに日本で一、二を競う石垣は1611年に「打込はぎ」の技法で築かれ、根石より天端まで29.7mの高さ。下を見るだけで震えるくらい高いです。とても鎧を着て攀じ登れるようなものではないと感じました。

こちらは俳聖殿と言います。かの松尾芭蕉生誕300周年を記念して昭和時代に作られました。松尾芭蕉、実は伊賀国出身です。そのため実は忍者だったのではという伝承も残されています。



城から下山して街並みに出ても、当時の城跡を彷彿とさせる地名や石碑が残されています。
丸の内と聞くと丸の内にゃんにゃんOLと呼ばれるように東京の洒落たビジネス街が頭に浮かぶかもしれませんが実は城の敷地内は全部丸の内になるんです。
丸の内は東京だけではありません。

こちらは上野天神宮
菅原道真が祀られており、藤堂高虎によって城郭鎮守として勧進されました。


伊賀は伊賀忍者の里としても有名です。地元の三重大学には忍者の研究が盛んに行われていますが街中ではこんな忍者の人形も見ることができます。(時が450年くらい止まってるんじゃないかと思うくらいボロボロになってますが)

忍者の国伊賀とこの地を見守る伊賀上野城、是非訪れて高石垣を堪能いただければと思います!


おまけ

伊賀から帰る際に近江鉄道に乗ると「水口城南口」駅という駅があります。
(この城は伊賀ではなく滋賀県甲賀市にあります。"こうが"ではなく"こうか"です

この駅から少し歩くと水口城があります

関ヶ原の戦いが終わった後この水口は宿場町となり、徳川家光が上洛するための宿として作られました。そのため戦いのためというよりも御殿のような役割を担っています。


筆者の旅程がかなり杜撰だったため夜での訪問、しかも城内に入れずというお粗末さでしたが櫓もあったりと見所がありそうなので後日改めて行ければなと思います。

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。
このクソブログも新年を迎えることができました。
本年もよろしくお願いします

早速年明け一発目のお城訪問です。

当初は小田原城にでも行こうかと思ったのですが、実家の栃木に帰省したこともあり、ちょっと軽めのお城にしました。

それがこちら

長福城跡です。

多分聞いたことないという方がほとんどだと思います。僕も知りませんでした。

このお城、実は以前ブログでご紹介した祇園城、鷲城の中間に位置する城で、小山義政の乱の際に築城されたものです。

http://shirororo.hatenadiary.jp/entry/2018/09/15/祇園城・鷲城_その他諸々



小山駅から鷲城に向かって歩いていき、須賀神社を通り越して住宅街を抜けていきます。

やわた公園というところにこの城跡の碑が建っています。




現在は公園となっていますが、土塁かなと思われるものや、空堀の跡かなと思われるものなど想像を掻き立てられる痕跡がいくつか見つかりました。

やはり関東、土の城が多いです。東京住みとなったのでたくさん土の城を見ていきたいなと思います。


さて、新年となったためいくつか目標を立てたいと思います。

・仕事に慣れる
…転職して新会社になります。業界はあまり変わりませんが専門職となるので自分の出来ることを広げ付加価値を社会に提供していこうと思います。


・新潟のお城を見に行く
…僕、大名家で1番好きなのが長尾、上杉家なんです。やっぱり本拠地である越後国は押さえておきたいです。春日山城行きたい。

・資格を取る
…根がクズなので毎回落ちてる気がするのですが、証券アナリスト宅建、簿記二級を取りたいです。いや取る。

・ピアノを練習する
…毎回やり始めてすぐ挫折してるのですが今年はそれなりに練習していきたいです。
今弾けるようになりたい曲は乃木坂の帰り道は遠回りしたくなる、倉木麻衣のTime after time、米津玄師のlemon、Superflyの愛を込めて花束をですね

以上今年の目標、達成できるようにしたいです。


追伸

実家に帰ったらネコが2匹住んでました。うちに住み着いてしまった野良猫を飼い始めたようです。なんか実家の雰囲気が心なしか華やいだ気がします。