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春日山城と御館

どうも

怒涛のゴールデンウィーク10連休、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

おそらく平成最後の城巡りになる今回、新潟県にあります上杉謙信の居城、春日山城に行ってまいりました。

実は人生初の新潟行きということで結構ワクワクしております。


まずは上越新幹線越後湯沢駅へ。冬場になるとスキー客で賑わうらしいですがGWでも観光客で賑わっておりました。

ここから私鉄で直江津駅、そして春日山駅に移動します。


こじんまりとした駅で、上杉謙信を大々的に推してるわけでもない、いたって普通の駅でした。こういうところ、好感が持てます。

駅前にあった交流館も落ち着いた雰囲気で良かったです。(市民から寄贈された本コーナーがあったのですがなぜか謙信関係の本がほとんどなかった…)

この駅から春日山城の麓までは大体歩いて30分、こういう地方都市にありがちな循環バスも、地方都市にありがちな時刻表の過疎り具合のせいで利用できなかったためテクテク徒歩で向かいます。

駅から少し歩くと謙信公通りという大通りに出ます。
基本的にはこの道をひたすら歩いていく感じになります

途中石垣好きを虜にするような石垣が!!

まさか石垣が街中に!?

某進学塾ばりの疑問と興奮を持ちつつ勇んで駆け寄ってみると…




トイレでした。くそッ


まぁお城までそれなりの距離がありますし、行く前にお腹下して三方ヶ原で敗戦した徳川家康よろしくお漏らししたまま登城する危険を少しでも排除すべくここでしっかり出すものは出しておきましょう。


大通りをどんどん進んで行くと目の前に大きな山が見えてきます。これがお城がある春日山

ザ・山城って感じがここからビンビン伝わってきます。

山に向かって歩いて行くと…


ついに到着、春日山城入り口です。

この春日山城上杉謙信のお父さんである長尾為景という人が城主としてこの城に入り、謙信、上杉景勝と代を重ねてきますが、豊臣秀吉によって上杉景勝会津に国替えされたあとは堀秀治という人が春日山城主として入城します。

しかし春日山城では平時の統治に不向きであり、当時港町として栄えていた直江津に近い場所に福島城を築城、そこに移ってしまったため春日山城は廃城となりました。

今では堀跡や曲輪の跡が残っているという次第です。

さて、山であるからにはここから登山が始まります。


案内板によるとこの道が春日山城への正式な道であるみたいです。この道をズンズン進んでいきます。


覚悟はしてましたが山です。山道です。

途中こういった番所の跡や家臣の屋敷跡がありますが、それを横目に登っていきます。


途中ピクミンがいそうな木がありました。


当時のお侍さんは重い鎧を着てこの山道を上り下りしたわけです。
戦から帰って本丸まで行くにはこの道を登らなきゃいけない。はっきりいって苦行。福利厚生のふの字もない。

辞令交付で山城勤務を言い渡された家臣はさぞ悲しみの涙を流したことでしょう。

こんなくだらないことを考えながら歩いていくとそれなりの高さになってきます。

山頂に近づくにつれて家臣の屋敷跡の敷地も大きくなっていきます。家臣の序列に従って大きくなっていくのでしょうか。

ちなみに柿崎和泉守という方、上杉謙信も一目置くほどの猛将で数多くの合戦で先陣を勤めては相手方に恐れられていた武将になります。
信長の野望では戦闘能力に能力値が全振りされて戦闘マシーンとしてしか使えない武将になっていますが、近年の研究では政治や外交でも活躍していたことが明らかになっておりかなりのハイスペ武将であったのではと思います。

重臣の柿崎和泉守、そして一門衆の上杉景勝の屋敷跡を超えると今度は井戸曲輪と呼ばれる場所に出ます。



今でも井戸の中には水がたまっています。
夜になると貞子とか出てきそうな感じの井戸ですが、ここが城内の水の手、生命線になります。

この井戸曲輪を登って行くと…



本丸跡、山頂です!!!
山頂からは上越市内、そして直江津を眼下におさめることができます。謙信も同じ眺めを見ていたのでしょうか。

前の方にある山にも城があり、春日山城の支城として機能していたようです。

この本丸から尾根伝いに降りていくと、


出陣前に謙信が篭って戦勝祈願したと言われる護摩堂の跡、そして進行していた毘沙門堂があります。



帯曲輪や空堀といった城らしい防御施設も観察できます。

この春日山城の中腹には春日山神社という神社があります。

御祭神は上杉謙信


多くの方が参拝しておりました。

調子に乗っておみくじを引いたところ

なんと大吉!!
令和も良い年になりますようにとお願いしてきました。

この神社の横手に上杉謙信の像が凛々しく建っています

この春日山城の麓、歩いて15分くらいのところに謙信やその一族が弔われているお寺、林泉寺があります。



1497年に長尾能景(謙信の祖父)という武将が開き、上杉謙信が幼少の頃修行したお寺になります。立派な山門に掲げられている「第一義」という額は謙信直筆になります(本物は宝物館に保管)

墓地に行くと長尾能景、長尾為景上杉謙信川中島合戦の戦死者供養塔、堀秀治の墓があります。




謙信の父である長尾為景という人、実は自分の主人である上杉房能という人を殺して自分が越後の支配者となろうとした、いわゆる下克上の化身のような人です。彼も生涯戦に明け暮れましたが、結局他の武将の支持を得られず隠居、長男の長尾晴景家督を譲ります。

しかしこの晴景、父為景とはうってかわって戦を好まず芸能面に才能を発揮してしまいまたまた武将たちの支持を得られなくなってしまいます。

そこで目をつけられたのが当時修行中の身であった長尾景虎、後の上杉謙信です。

謙信は為景の四男という立場でしたが、兄たちが次々と早死してしまったせいで後継として推されます。

その後晴景方と景虎方とで何度か争いが起きた結果景虎が勝利、無事大名として歩み出すことになるのです。

こういった少しドロドロした歴史が春日山城に残っています。

さて、舞台を春日山から港町である直江津に移しましょう。

この直江津には、先程ちらっと出てきた福島城という城跡があります。
そしてもう一つ、上杉家の歴史を語る上で外せないもう一つの史跡があります。

それがこちら

御館です(おたて、と読みます)

現在は完全に公園となっていますが、戦国時代にこの御館と春日山城を舞台に血みどろの上杉家の内紛が起こりました。

それが御館の乱

1578年、上杉謙信が急病で死去すると、上杉家には2人の後継候補が残されました。

1人は上杉景勝。もう1人は小田原北条氏から人質として送られ、のちに謙信の養子となった上杉景虎です。2人とも謙信の実施ではなかったのですが、景勝は謙信の姉の子、つまり甥っ子、景虎は謙信の姪を妻として迎えていました。

謙信死後の後始末で家中が混乱する中、上杉景勝と一部家家臣との関係が悪化、景勝に後継になってもらいたくない一派が上杉景虎を担ぎ上げたことで後継者争いが起きました。この辺りは当時の上杉家中の対立関係や派閥が大きく関わっています。

乱の当初は景勝が春日山城を占拠し軍資金も手に入れたため優位に立ったと思われましたが、景虎はこの御館に避難、さらにこの館の主人で上杉謙信に上杉という性を与えて養子にした上杉憲政を味方につけます。さらにさらに実家の小田原北条氏に援軍を送ってもらい、北条と同盟関係にあった武田勝頼にも援軍を送ってもらいます。

外からの勢力を味方につけることで景虎が一気に優位に立ったのです。

一方景勝方は譜代の家臣や国内の領主を味方につけていきましたが外に味方を持てませんでした。

そのため長年の敵であった武田勝頼と和睦するという道を選びます。

実はこの時、北条家は関東の他の敵と戦っていたため全力でこの内乱に介入出来ず、武田のみが痛い思いをしながら戦うという状況になっていました。そのため勝頼は北条家への不信感を募らせこの和睦案を了承します。
これに激怒した北条家はやっと援軍を越後に送り勝頼に考え直すよう迫りましたが、季節が冬だったこともあり北条家の侵攻も雪に阻まれて止まってしまいます。

こうして外圧を見事に排除した景勝は景虎方への総攻撃を開始、この御館を中心に激しい戦いが起こります。
過去にこの御館あとで発掘作業が行われた際は焼けた鉄砲の弾や簪と言った生活や戦の遺物が出土したようです。

御館を支えきれなくなった景虎は小田原へ逃げようとしますが、途中家臣の裏切りに遭い自害、館の主人上杉憲政も、景虎の息子を伴って助命嘆願をするために春日山城へ向かう途中景勝方の兵に襲われ2人とも殺害されてしまいます。

こうして御館の乱終結し、景勝の反対派が一掃されたわけですがこの内乱の傷跡は大きく、直後に織田信長の侵攻に直面、苦しい戦いを本能寺の変まで続けることになります。



案内板には、当時の御館はもっと広い敷地があったこと、そして御館の乱の説明が書かれています。

この御館と春日山城、距離が7キロほどしか離れておらず、この御館から春日山を見ることもできます。それくらい目と鼻の先で繰り広げられた戦いでした。

ということで一度行ってみたかった春日山城と御館にようやっと行くことができました。
新潟にはまだ謙信や景勝ゆかりのお城や史跡がまだまだあるのでどんどん訪れてみたいです

おわり

渋谷城!!

どうも

本日、青山学院大にて証券アナリスト試験を受けてきました。

まぁ、次頑張ります…

さて、せっかく渋谷まで出てきたので渋谷にあるお城に行ってきました。その名も渋谷城

そんな城あるの??って声が飛んできそうですが実はあるんです。

現在は渋谷城と言う名前ではなく金王八幡宮と名前を変えて渋谷駅近くに鎮座しております。


思いのほかかなりしっかりした鳥居です。

入口脇には乃木希典揮毫による日露戦争記念碑もありました。定期的に軍人の集いがあったのではと説明板にありました。

さて、このブログ恒例の長ったらしい解説タイムです。

金王八幡宮の金王という部分、ある人物の名前から取られています。

その名も渋谷金王丸

もともとこの地は渋谷氏という一族が館を構えており、平安時代の時の城主、渋谷重家という人物が後継に恵まれず祈願したところ、金剛夜叉明王化身として金王丸という子供を授かったという言い伝えがあります。

この金王丸は源義朝(頼朝の父親)に仕え、保元、平治の乱を生き抜き、義朝の子の頼朝に仕えます。

さて、この後金王丸は出家し名を土佐坊昌俊に改めます。

この土佐坊昌俊こそ、頼朝と義経の関係がギクシャクした際、義経を暗殺するために頼朝が差し向けた刺客となる人物です。

しかし現在は金王丸=土佐坊昌俊ではないのではとの意見も出されており、金王丸の存在含めて議論が起きている状態です。

しかしこのように神社となって今に伝わっているところを見ると実際にいた人物なのではとも思えます。


背後に高層ビルが見える朱塗りの社殿です。参拝している方も多く地元から崇敬されている様子が伺えました。

現在この八幡宮に残っている城の名残はこれだけです。

砦に使われた石一つだけ。

周囲の再開発に加え、この城郭は戦国時代早々に落城してしまったことが伺えます。

戦国時代早期の東京は北条氏と上杉氏との争いの場になっており、現在の江戸城も含めて幾度も戦いが起きていました。

この渋谷城も例外ではなく、上杉朝興と北条氏綱との戦いで廃城になったようです。

ちなみにこの上杉朝興という人、娘がかの武田信玄に嫁いでいます。若くして亡くなられてしまったため子供はいないのですが、思わぬところで有名武将と繋がっていたりします。

江戸時代になるとこの八幡宮では算額という、算数の問題を出してそれを参拝者が解くというものが流行ります。世に言う和算です。

この八幡宮には当時の算額が飾られています

ちゃんとした数学の問題が書いてあります。
当時の和算には流派が存在し、問題に対する解き方の違いで流派が分かれていたようです。

小さくともこのように当時の文化が残り城跡としても残る金王八幡宮、ぜひ参拝してみてください

翔んで埼玉、弾着古河

どうも

今話題の映画、「翔んで埼玉」見てきました。

http://www.tondesaitama.com/gallery/ より
埼玉には幼少期数年だけ住んだことがあるのですが、ほとんど記憶に残っておらず、東京の大学院に栃木から通う時も文字通り翔んで埼玉状態だったので特段思い入れがあるわけではないのですが、これが舞台栃木だったら映画かすらされないんだろうなぁって思って見てました。(内容はくそ面白かったです。あと、主役のGACKTがラスト、某大河ドラマで演じた長尾景虎にしか見えなかった。)

さて、栃木から東京に行くルートとして、湘南新宿ラインというJR東日本でもトップクラスに治安が悪い路線があります。その電車は栃木から埼玉を縦断し、車内で通行手形を受け取ってから東京に入国するわけですが、もう一県、通過する県があります。

それが茨城県古河市古河駅

古河と聞いてピンと来る人がいたら多分歴史好きなんだろうなって気がするのですが、古河公方足利氏の本拠地があります
ということは当然お城もある!

なので今回はこの古河の地を散策しようと思います。


湘南新宿ライン古河駅へ。
規模としてはソコソコの駅です

西口すぐ近くにレンタサイクルをやっている「わんぱくステーション」という施設があるのでそこで自転車を借ります
。無料でした!

万寿王丸くん。この人こそ初代古河公方、のちの足利成氏
関東管領山内上杉家扇谷上杉家と血みどろの戦を繰り広げます。

ところで古河公方って何?って人もいるかと思うので少し解説します。例によって長いのでもう知ってる、写真だけ見たいって人はすっ飛ばしてください。

室町時代、京都に置かれた幕府は関東地方の出先機関として鎌倉に鎌倉府を設け、そこの長官として鎌倉公方を置きました。初代鎌倉公方足利尊氏の四男、足利基氏、以後この人の子孫が代々鎌倉公方となります。鎌倉公方を補佐する関東管領として上杉氏が補任されました。この鎌倉公方、割と独立意識が強いらしく様々な局面で幕府とぶつかります。
そしてさらに鎌倉公方関東管領上杉氏も次第に対立状態となったため関東地方の政情が緊迫の度合いを強めていきます。


転機となったのが1439年。室町幕府6代目将軍足利義教と第4代鎌倉公方足利持氏が対立、両者の間でついに戦いが勃発します。
義教に対して半旗を翻そうとした持氏を時の関東管領、上杉憲実が制止しようとしますがこれに持氏が反発、憲実を暗殺しようとします。堪らなくなった憲実は将軍義教に救援を依頼、渡りに船とその依頼を受けた義教は持氏討伐の軍を派遣するのです。

これが永享の乱です。

戦い自体は幕府軍の勝利で終わり足利持氏は自害し、鎌倉府は一旦断絶します。
将軍義教は自分の子供を新たな鎌倉公方に据えようとしますがここで事件が勃発。

持氏の遺児、安王丸、春王丸が結城氏朝という武士に擁立され挙兵します。これが世に言う結城合戦。ただしこの戦いもすぐに鎮圧され、安王丸、春王丸は殺されます。

この時、持氏の遺児で辛くも生き延びた人物がいました。それが先ほど出てきた万寿王丸です。

結城合戦の翌年、京都では大変な事件が起こります。(大変な事件ばっか起こる…)

なんと将軍足利義教が赤松満祐に暗殺されます。世に言う嘉吉の乱です。

幕府はこの対応で大わらわとなり持氏の遺児なんかに構っていられなくなってしまいました。結果として万寿王丸の命は繋がったのです。

しかし結局鎌倉府は消滅してしまったので関東の統治ができない状態となってしまいました。

関東では足利持氏の旧臣によって、持氏の遺児を関東公方にまた据えてほしいという要望が出されており、幕府はこの声に押されて万寿王丸を鎌倉公方に任命します。万寿王丸は名を足利成氏と改め5代目鎌倉公方となりました。

しかしここで幕府は同時にとんでもない人事を行います。
なんと鎌倉公方を補佐する関東管領に、上杉憲実の息子上杉憲忠を任命するのです。

成氏からすれば憲忠は父親の仇、憲実の息子です。当然激しい憎しみを抱いています。

この人事が次の戦乱への導火線となってしまいました。
当然関東に平穏がもたらされることはなく、1450年には憲忠の家臣長尾景仲と足利成氏が戦いを始め(江ノ島合戦)、1455年についに上杉憲忠が成氏によって暗殺されます。

この事件を契機としてついに鎌倉公方関東管領の間で全面戦争が勃発、以後30年近くに渡って繰り広げられる享徳の乱が幕を開けます。

当初は成氏が優勢でしたが京都の幕府は関東管領上杉側に加勢を決めため成氏は徐々に追い詰められます。そこで自身の味方が多い上州や下野に近い古河の地に本拠を移します。

以後鎌倉公方古河公方となりました。

ここまでが古河公方誕生のあらましです。


ではでは早速お城に向かいましょう!!




と、言いたいところですが実は古河城は現在一部を残してほとんど遺構が消滅しています。

その原因がこれ

渡良瀬川です。

近代に入り、この辺り一帯は治水が最優先課題となり河川一帯の大改修工事が行われました。
そのため古河城の大部分が破却されてしまったのです。


この図を見てもらうと分かる通り、古河城は川に挟まれた要害の地にあると同時にかなり広範な城郭だったことがわかります。

破却されてしまった以上、わずかに残っている痕跡をたどっていくしかないのでレンタサイクル駆使して巡ろうと思います。


最初に来たのはここ福法寺
ここの寺の門は古河城で使用されていたもので、破却される際にこちらに移築されました。
平唐門と呼ばれる様式らしいです。

ここからすぐのところに鷹見泉石の記念館があります。幕末の蘭学者で古河藩に使えていた方です。当時の武家屋敷がそのまま残っています。


この武家屋敷のすぐ目の前に歴史博物館があります。
そこにも当時の曲輪の痕跡が残っています。
諏訪曲輪と呼ばれていた場所です
歩道が整備されたために見えにくいですがかすかに土塁の跡が残ります。

ここからさらに西へ行くと古河城で最も遺構が残っている土塁が現れます。



当時の古河城を紹介するパネルがありその奥に土塁が残っています。

ここが古河城においてもかなり戦略上重要な曲輪だったそうです。
裏手から見るとかなり大きめの土塁ということがわかります。

この土塁からまたさらに西に行くと渡良瀬川の堤防にたどり着きます。

堤防沿いにある自転車を漕いで行くと城の本丸に着きました。


本丸の跡地は完全に当時の面影を残していません。野球場になってました。

ここまで古河城の跡地を見て来ましたが、古河にはもう一つ、成氏が城の1キロほどに築いた古河公方があるのでそちらに行きます。

途中に松月院というお寺の跡があり、そこに御所塚という場所があります。

古河公方足利義氏の孫義親の妻の墓と推定されています


案内板によると他に二つほど古河公方ゆかりの寺があるそうです

ここからすぐのところに古河公方館跡があります。今は古河総合公園となっています。


この時期は桃祭りを行なっているらしく、賑わいを見せています。この公園の中に沼があり、半島のように突き出た土地があります。そこに公方館がありました。

橋から見た公方館跡です。土塁の跡と思しき形状が確認できます。
ここが公方館跡です。
古河公方は成氏の後政氏、高基、晴氏、義氏と続きます。義氏には男の子孫がなく足利氏姫が館主として江戸初期まで住んでいました。

この館跡のすぐ近くに古河に残っている伝統住宅が展示されていました。

昔ながらの住宅ということで居間や道具が展示されています。
しかもこの住宅、大河ドラマ西郷どん」の撮影で使用されたそうです。


この公園内に「徳源院」という寺院跡があります。先ほど出てきた足利義氏、その娘氏姫、さらに氏姫の息子義親の供養塔があります。


足利氏姫の石塔

足利義親の石塔

ここに足利義氏の遺骸、もしくはその一部が埋葬されているとのことです。

さて、古河公方のその後ですが、足利成氏と上杉氏との死闘も1478年に和解が成立することで終結します。しかし今度は上杉氏の中で内紛が起こり、山内上杉家扇谷上杉家との抗争が始まります。世に言う長享の乱です。

このように古河公方、上杉氏が抗争を続けているうちに伊勢新九郎盛時、後世北条早雲が力を持ち始め上杉家の領国を犯し始め、2代目の北条氏綱もさらなる勢力の伸張を図ります。ここにいたり関東の秩序を守るため、古河公方山内上杉、扇谷上杉の三氏が手を組むこととなります。

そしてついに古河公方足利晴氏山内上杉憲政、扇谷上杉朝定の3人が手を組み氏綱の息子、北条氏康に戦いを挑みます。

しかし川越城の戦いで大敗し山内上杉憲政は越後に亡命、扇谷上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉氏は滅亡します。

残った古河公方足利晴氏北条氏康の妹を娶っていたため助命されましたが幽閉されることとなります。結局北条の血を引く息子、足利義氏古河公方の座を譲らざるを得なくなりました。

さて、この足利義氏ですが先ほど言ったように男系子孫がいないため娘の氏姫が名目上の当主となり、北条家に支配されることとなります。

1590年に北条家が滅亡した際、北条の支配から解放された氏姫ですが、豊臣秀吉の命令で関東に残っていた足利家の血筋(世に言う小弓公方の生き残り)、足利国朝と結婚、さらに国朝病死後はその弟の足利頼氏に嫁ぎます。
そして子供、足利義親が生まれます。

この足利頼氏、義親と連なるこの血統が足利家の事実上の当主となり、今の栃木県さくら市を本拠として喜連川藩を立藩します。

石高5000石の藩ですが足利将軍家の血筋を引くことから御所号を許された上に10万石相当の待遇を受けました。さらに参勤交代も免除されると言う名家ゆえの特典、恩恵を受けます。

しかし5000石の収入で10万石の家格を維持することは至難の業で財政は火の車、日光街道を抑えた土地だった故に宿場町を主な財源としてなんとか乗り越えていったようです。

それでも与えられた特典やその家格の高さから江戸幕藩体制の枠組みからも外れ、喜連川藩は自らのことを「天下ノ客位」、「無位ノ天臣」と呼んでいたそうです。様々な意味で興味深いお家だなって思います。

この喜連川家、明治維新まで見事に生き抜き、鎌倉公方の血筋を今に伝えています。


戦国関東地方を逞しく生き抜いた古河公方足利家の歴史に触れることができた古河散策でした。

おまけ

桃の花
綺麗でした

ゴジラ検定と乃木神社

どうも

ゴジラ検定を受けてきました。

お名前の通り、ゴジラに関する知識を問う検定です。中級を受けてきました。ゴジラ愛もここまでくると多分病気です。

え?就活に役立つ資格かって?

東宝に就職しようとしたら役立つんじゃないですかね。ただ検定料は簿記二級より高いです。

さて、最寄駅について会場まで歩く途中にこんな碑が。

忠臣蔵で有名な赤穂浪士の自刃の地がこの辺りだったようです。この碑から少し歩くとちょっと周りの雰囲気と空気が違う一角が現れます。

この辺り一帯は肥後細川家の下屋敷があったようです。
赤穂浪士の面々はこの屋敷で自刃しました。その際肥後細川家は彼らを罪人として出なく英雄として遇したことも書かれています。

ではここから検定会場へ

結構オタクな試験なのでそんな人もいないだろうと高をくくっていたら意外や意外、老若男女問わずたくさんの方がいました。ただ普通の検定試験と異なることが。


なんと試験会場で物販してる!

ふつーTOEICとか簿記の試験会場行っても限定Tシャツとかフィギュアとか売ってないじゃないですか。なのに半分イベントのような感覚でみんな来てる。

いや試験なんだぞ!ここまで勉強したことを試す神聖な場なんだぞまじめに試験だけ受けろ!













と、身を律することも能わずしっかり限定クリアファイルを買いました。

で、肝心の試験の方ですがどんな内容の試験が出たかというと、

問1.第1作「ゴジラ」の劇中に登場した潜水服のナンバーは「5」ともう一つは?

問2.日本国内の実写ゴジラ映画20作目にあたる作品はどれか

問3.「メカゴジラの逆襲」は本多猪四郎が監督した何作目のゴジラ


…いや知らんがな。。。


まあこんな感じの問題です。はっきり言って自分の勉強不足を痛感しました。

これからは朝起きたらゴジラ1作品、仕事から戻ったら3作品見る生活をして知識を身につけようと思いました。

そんなこんなで試験が終わったのですが、せっかくここまで出てきたので東京に来たら行ってみたかった場所に行ってきました

それがここ

乃木神社です!

乃木という文字が冠されているようにこの神社には乃木希典、乃木静子夫人が祀られています。
乃木希典の旧宅の一部がこうして神社となりました。

乃木希典というと司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」において辛口に書かれていますが、1904年から始まった日露戦争において第3軍を率いて旅順要塞攻略を行った方です。

この攻防戦で夥しい死者を出したことから軍事的素質、上官としてのあり方について後世さまざまな評価をされました。(極端な放蕩生活とその後の異様な質素倹約生活、そして4度の休職などかなり波のある生涯を送ってます)

また漢詩をよくした文化人としての一面も持っています
旅順要塞を攻略した後に読んだ詩

爾霊山険豈難攀   
男子功名期克艱   
鐵血覆山山形改
萬人齊仰爾霊山

爾霊山は嶮なれども 豈攀じ難からんや
男子功名 克艱を期す
鐵血山を覆うて 山形改まる
萬人齊しく仰ぐ 爾霊山


当時の戦の激しさがよく伝わってきます。
乃木自身もこの戦争で子供2人を亡くしました。(そのうち1人は自身が指揮した旅順攻略戦で戦死)

明治天皇崩御し、大葬が行われた日の夜、静子夫人とともに自刃。62年の生涯を終えます。
その死に様は夏目漱石が「こころ」に、森鴎外が「興津弥五右衛門の遺書」に書いたように広く世の中、そして文壇にも影響を与えました。


本殿の様子も近代に作られた神社らしく新しく綺麗な佇まいでした。

神社に来たらやることは2つ、願い事祈願とおみくじです。

さぁ大吉は出るか!?!?



中吉。中吉。

難産だそうです。


ということで乃木神社への参拝も無事済ませ、無料で入れる宝物殿も堪能しました。


余談ですが、乃木の名前を冠したものが世の中にもう2つほどあります。
1つがこれ

そう、乃木坂

そしてもう1つがこれ

そうです今や国民的アイドルグループになった乃木坂46
乃木希典がいなければ、もしくは活躍していなかったら乃木坂46という名前はこの世になかったかもしれません。この点からも乃木希典の功績は誠に大なるものがあったと思うわけです。


ちなみに乃木坂での推しメンは齋藤飛鳥ちゃんです。ザンビ毎週見てます。怖い話なのに乃木坂の可愛さで強引に中和されてるのがいい感じです。

ところで坂という漢字がつくアイドルグループがもう2つあります
欅坂46けやき坂46改め日向坂46です

個人的にこの両グループを推しているのでいづれこの2つの坂も訪れたいです。
そして乃木坂46と合わせて、坂の上の雲を目指して駆け上ってくれたらなぁって思います。

2回目の余談ですが、欅坂46の推しメンはキャプテンの菅井友香さん、日向坂46の推しメンは高本彩花さんと宮田愛萌さんですよろしくお願いします


終わり

お城の本2

どうも

最近お城に行けてないので(主に財力の問題)、かといってブログの更新を止めちゃうのもなんか嫌だし(主に体面の問題)ってのもあってこれからは買った歴史本の紹介もしていこうと思います。
お城の本って銘打ってますけど幅広く歴史の本を紹介していきます。(最初に紹介したのが城の本だったのでこんな名前にしちったてへぺろ

ということで今回紹介するのはこの本

テーマは承久の乱です
承久の乱とは鎌倉時代の1221年に起きた後鳥羽上皇鎌倉幕府との戦いです。いちに不意打ち承久の乱って語呂合わせで覚えた人もいるかと思います。

この本では承久の乱に至るよりも前、院政の成立から始まり、源頼朝による鎌倉幕府の創設、その死後に北条氏はじめとする御家人同士の戦い、源実朝暗殺による源氏将軍の断絶と北条氏の主導権把握と話が進み、承久の乱へと繋がっていきます。

こういった戦いだと、敗者の扱いがかなり風当たりの強いものになるのが世の常です。

この例に漏れず後鳥羽上皇も出自が皇族ということもあり戦下手、リーダーシップも取れないのに大それた乱を企画した人という印象が強いのかと思います。

この本ではそういった後鳥羽上皇の人物像の再評価も試みています。

新古今和歌集を編纂し諸芸能に秀でた文化人という面だけでなく、源実朝死後の幕府との駆け引きを演じた強かさも示しています。
何より鎌倉幕府内部の混乱、政争が都をも巻き込み出したことへの怒りや幕府への不満が乱へ繋がっていき、かなり用意周到に乱を計画していることを明らかにしていきます。

また、後鳥羽上皇鎌倉幕府を倒すのではなく自らのコントロールの下に置くことが目的だったことを論じています。

学校ではたった数行でしか書かれない承久の乱ですがそこに至るまでには長い道のりや出来事が積み重なっていたことがわかります。


さて、承久の乱は幕府の圧勝に終わりますが、この乱がもたらした影響、とりわけ六波羅探題設置による鎌倉幕府の西国支配強化についても本書では書かれています。

鎌倉幕府、北条氏の権力掌握の転換となった承久の乱、いつかこれに関連する史跡に行ってみたいです。


妙心寺

どうも

京都行きました。もう何回目か忘れました。

友人の結婚式に出席するというなんとも栄誉かつめでたい目的で来たのですが時間まで少し時間があるので京都観光と洒落込みました。


何度見たかわからないこの京都タワー

多分そろそろ市バスの系統も覚えられるんではなかろうか

26系統バスに揺られること40分弱、こちらのお寺に来ました

こちら、妙心寺です。
山号は正法山、本尊は釈迦如来、開基(いわゆる創立者)は花園天皇です。

普通のお寺みたいに本堂があるだけでなく多くの塔頭、院が建ち並ぶ一大寺院群を形成しています。





各院、春日局や堀尾氏(国宝松江城の築城一家)と言った錚々たる方々と縁があるものになります(ちなみにこれらの院はそれぞれ拝観料がかかります。薄給貧乏リーマンなのでそこはケチって外から見える看板だけ撮ってました)


さて、そんなドケチリーマンの僕が唯一拝観料を払って見たものはこちら


退蔵院です。

この寺には、室町時代の絵師、狩野元信が作った石庭、

そして日本史の教科書か資料集に必ず載ってるかと思われるこの絵

そうです、国宝瓢鮎図です!

瓢箪で鯰を捕まえるという禅の公案(いわゆる試験)を絵にしたものです。最古の水墨画とも言われています。とにかく鯰が可愛い。



妙心寺山門と仏堂、かなり大きい

妙心寺にはほかに、明智光秀の菩提を弔うために作られた明智風呂や幕末の思想家、佐久間象山の墓(非公開)があります。

また、もう一つ戦国武将がらみで縁がある寺がこちら

玉鳳院です。

残念ながらこちらの寺は全面非公開なのですが、花園天皇妙心寺に隣接して創建した建物です。花園天皇の木像が祀られているとともに豊臣秀吉の子・棄丸のお霊屋があります。

そしてさらに、織田信長織田信忠父子、甲斐源氏武田信玄、勝頼、勝頼息子の信勝、勝頼の従兄弟、信豊の供養塔があります。

織田信長が武田攻めを行い、武田勝頼はじめとして主だった一族の首が京都に送られて晒されました。
当時の妙心寺住持の南化玄興が武田家と関係が深く、彼らの首をもらい受けて葬ったそうです。

ちなみに信長父子の供養塔は元々別の場所にあったそうですが江戸時代に移設されたそうです

宿敵の両家の供養塔が同じ場所に並んで置かれているそうですが、なかなか感慨深いものがあります。

戦国武将とゆかりがある妙心寺、今度はまた別の寺に行こうと思います。

ちなみに京都では今いろんな寺院で非公開文化財が期間限定で公開されています。こっちも随時チェックして行きたいです。


さて、最後に今回京都に行った大目的の結婚式参加。

いや〜いいっすね!!

結婚式童貞だったので出席するだけなのにすごい緊張しながら行ったのですがすんごい幸せそうでこっちも結婚したくなりました。
末永くお幸せに!と何度心で連呼したかわかりませんがこれまでで一番幸せな気持ちになった京都旅行でした

終わり