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本紹介③

どうも

最近歴史小説読むのにハマり出しました。

数ヶ月おきくらいにハマりの波が来るのですが今がその時でした。

昔は歴史小説というと司馬遼太郎が一番人気かつ認知度も高かったのかもしれないですが、最近は本当にいろんな作風の作家さんがいてまさに群雄割拠の様相を見せています。

そういうわけで今日はこの本を紹介します。

天野純希著 南海の翼 長宗我部元親正伝
です。

誰が主人公かというと、本のタイトルにあるように長宗我部元親になります。

四国にお住いの方、特に高知県に住んでいる方は聞いたことがある名前かと思います。

戦国時代の長宗我部家の当主であり、最終的には四国全土を統一する直前まで上り詰める方です。


また、幼少の頃は大人しく武芸を磨かなかったために姫若子と呼ばれるも、初陣でいきなり首をいくつも上げるという猛将の一面を見せたことから土佐の出来人の異名を取った、という逸話も残っています。


この小説では彼の四男で跡取りであり、大阪夏の陣で豊臣方についた長宗我部盛親が、元親の代から長宗我部に仕えてきた家臣、久武親直に元親とはどのような人間だったのか、元親生存中に起きた事件や出来事の真相は何だったのかを問答する形式で話が進んで行きます。


この久武親直という武将も、実在の人物ではありますが後世の評価がよろしくありません。


元親の側近として辣腕を振るうも、自身に反対する派閥の粛清を行い、最終的には長宗我部家が潰れるきっかけを作った、と言われているからです。


ですがこの小説では、親直のことを、主君のためならどんなに汚い事でもやり遂げる、ある種の忠臣として描いています。


このような、後世評価の低い人物を別の解釈で描けるというのはまさに小説の醍醐味だなと思います。

この天野純希さんの作品では、明るく快活な人物が権力や力を手に入れて闇落ちしていく様が描かれることも多いのですが、この小説ではむしろ彼の家族に関する不幸が、どのように晩年の元親に影響を与えたのかを描いています。

現代的、と言ってしまうと陳腐なイメージが出てしまうかもしれないのですが、人間味のある長宗我部元親が描かれており、そのおかげで彼の身の回りの人物の人柄も良く伝わって来る内容になっています。


何か面白い歴史小説がないかな〜とお悩みの方は是非天野さんの著作、ひいてはこの作品を手にとってもらえればと思います。

おわり


※そういえば昨日サマーウォーズやってましたね
いつか上田城とかの紹介もしたいです

四谷見附周辺

どうも

四谷の方に用事があってついでに周辺の史跡巡りしました。

1.紀尾井坂
四ツ谷駅から上智大学のソフィア通りを進んで行った先に紀尾井坂という坂があります。

途中に尾張徳川家の屋敷跡や

東電のガス燈があったりして地味に史跡が豊富だったりします。

ちなみに紀尾井坂というのは、伊徳川家、張徳川家、彦根伊家の屋敷跡があったことからそれらの文字をとって、紀尾井坂と名付けられています。


こちらが紀尾井坂です。

この坂で明治の初めにある人物が暗殺されました。
この方です。

大久保利通です。

大久保利通といえば西郷隆盛木戸孝允と並んで維新三傑と呼ばれ、明治新政府の設立に尽力したことで知られています。

しかしその過程で旧士族の反感を買い、盟友西郷隆盛西南戦争に討った後に石川県士族の島田一郎らに紀尾井坂麓の清水谷で襲撃されました。




現在大久保利通が暗殺された場所には清水谷公園があり、哀悼石碑が建立されています。かなり立派なものです。

この紀尾井坂を登ってホテルニューオータニを右手に見て歩くと喰違見附があります。



見附というのは、いわゆる外郭門のことで、江戸城の外郭門として機能してました。東京駅にある江戸城ですが当時はこの辺りも城の一部だったのです。

ここでは公家出身で江戸幕府倒幕に貢献した岩倉具視が襲撃された場所でもあります。
堀もかなり深いことがわかります。

さらに四ツ谷駅のすぐ近くには四谷見附があります。


今では石垣の一部が残っているのみですが往時を様子を見ることができます。


迎賓館や上智大学があり近代的なイメージのある四ツ谷ですが意外にも史跡が多いことがわかりました。

いつか見附全制覇したいです。

尾張…じゃない、終わり

ビキニの日

どうも

今日は7月5日ですね。
実は1946年の今日、ある衣服(?)が発表されました。

それがこちら

そうです、ビキニです

1946年7月1日にマーシャル諸島ビキニ環礁アメリカによる原爆実験が行われました(クロスロード実験)
その直後7月5日にルイ・レアールと言う人がその小ささと周りに与える圧倒的破壊力を原爆になぞらえある水着を発表、実験が行われた地名を取って"ビキニ"と名付けられました。

この原爆実験から8年後、1954年3月1日、同じビキニ環礁で水爆実験が行われます。(ブラボー実験)
この実験により被爆したのが日本漁船の第五福竜丸です。この出来事を受けて制作されたのがあの名作「ゴジラ」になります。

ちなみに1946年のクロスロード実験ではアメリカに接収されていた戦艦「長門」が標的艦として使われます。大和、武蔵に次ぐ戦艦で連合艦隊の旗艦を長く勤めました。当時大和と武蔵は国民に秘密で建造されていたため戦艦陸奥と並んで国民に親しまれていたようです。


ゴジラキングオブモンスターズに出てきた、モナーク第54前進基地の名前が「キャッスルブラボー」だったのは、ゴジラ誕生のきっかけになった水爆実験がキャッスル作戦におけるブラボー実験と呼ばれたからです(この作戦においてはアップショット・ノットホール作戦とティーポット作戦が行われています)

という事でビキニとゴジラ長門のお話でした。

ちなみに僕はビキニ大好きです


おわり

景徳院

どうも

最近すっかりお城とか史跡に行けてません。
飽きたとかではなく、どこに行こっかな〜って悩んでたらいつのまにか時間が経ってるみたいな感じなんです。あぁだんだん若者の書く文章ではなくなってる気がする…



これでも一応城郭検定受けたりとかお城の本読んだりとかしてるんですが、肝心の外に出れてない。


という事で、何か史跡の記事でも書けば、外に出た気になるんじゃないかと思ったのでつらつらこれまで書いてなかった史跡について書こうと思います。


今回ご紹介するのは景徳院です。

残念ながらお城ではないのですが僕がこれまで行った史跡の中でもトップクラスで印象深い場所です。

景徳院、どこにあるのかと言うと山梨県甲州市にあります

山梨と言うともうあの一族しか思い浮かばないのですが、このお方が深く深く関わっています。
この方です

信玄だと思った方、ブッブー!!
正解は信玄の四男、武田勝頼です。

この景徳院、勝頼はじめ、武田家の人々が自害した武田滅亡の地なんです。

1582年、今の長野県の木曽地方に勢力を持ち、信玄の娘を奥さんにしていた木曾義昌という武将が織田信長に寝返り、織田徳川連合軍による甲州征伐が始まります。

武田家側も長年織田家と敵対していたため備え自体はしていたのですがいざ侵攻が始まると怒涛の勢いで味方が逃亡を開始、さらに浅間山が噴火という当時不吉と呼ばれていた事件が立て続けに起こりわずか1ヶ月弱で信濃の領国が崩壊すると言う事態に見舞われます。唯一抵抗したのが、高遠城主で勝頼の弟、仁科盛信だけという有様でした。

この事態に際し、勝頼は新たな本拠地として築城していた新府城も捨てることにし、家臣の真田昌幸の居城である岩櫃城小山田信茂の居城、岩殿城に落ちる決断を迫られます。

最終的に信玄以前から代々武田家と同盟関係にあった小山田信茂を頼ることを決意し岩殿城に向けて逃亡を図ります。

ところがこの小山田信茂、土壇場で勝頼を裏切り城に入れることを拒みます。おそらく勝頼を保護して織田家の逆鱗に触れることを恐れたのではないでしょうか。

頼みの綱がプツンと切れた勝頼一行は、当時木賊山(とくさやま)にあった天目山棲雲寺を目指します。

このお寺はかつて武田家の祖先である、武田信満という方が上杉禅秀の乱に加担して敗死したお寺なのです。一度武田家が滅亡した地に向かおうとする勝頼の心中察して余りあるものがあります。

ちなみにこの時、小幡昌盛という武将が病により付いていくことが難しいと勝頼に別れを告げますが、彼のかかっていた病が地方病である日本住血吸虫症だったと言われています。(Wikipedia文学として有名)


この逃避行により配下の武士も多くが逃亡し武士が40人ほど、さらに数多くの女性も付いてきているという状況になっていました。

さらに寺にたどり着く前に織田家の武将、滝川一益に捕捉されてしまいます。そこで勝頼はこの景徳院一帯で最後の戦いを行います。


JR中央線甲斐大和駅が景徳院への最寄駅になります。
駅前には武田勝頼の像が建っています。
一応バスが出ているのですが時刻表が過疎の極みなので歩いて行った方が無難です。だいたい40分くらいです。


30分ほど歩くと2つの古戦場碑があります。
この四郎作、鳥井畑に簡単な柵を作り武田勢は織田軍を迎え撃ちます。
40人ほどで3000人を相手にするという無茶苦茶な戦いにもかかわらずしばらく持ちこたえます。
この戦いに際して、かつて不手際により勝頼の怒りをかって蟄居させられていた小宮山友晴という武将が駆けつけ、最後のお供を願い出て勝頼に許されたという話があります。

さらに山の方では土屋惣蔵という武士が崖を利用して敵の侵入を阻み、「惣蔵の片手千人斬り」という逸話を残しています(景徳院からさらに数キロ歩くと石碑があるそうです)



こちらが景徳院の入り口になります。

境内には甲将殿という勝頼の位牌を納めている建物と勝頼の嫡男、武田信勝の生害石が残っています。

家臣たちも必死の奮闘を見せますが最後には全員討ち死に、信勝も討ち死にします。



境内に勝頼の生害石、北条夫人の生害石もあります。

北条夫人ですが、当時まだ18歳。政略結婚により勝頼に嫁ぎ、上杉の家督争い、御館の乱で武田家と北条家が断交した後も武田家の人間として過ごします。
木曾義昌織田家に寝返った時は武田を守って欲しいと願文を書いて武田八幡宮に奉納しています


甲将殿の裏手には勝頼、信勝、北条夫人の墓があります。近年瓦等が出土しており江戸期から供養が行われていたことなどが分かっています。
勝頼の最後には諸説あり、自身も華々しく戦った後北条夫人の自害を見届けて自分も自害した説、逃避行による疲れで何も抵抗できず首を取られたという説があります。



こちらが景徳院の山門になります。
県指定の有形文化財となっています


本堂です。

本堂の手前にあるこの松ですが、勝頼は最後にあたり武田家重来の家宝である盾無しの鎧をこの松の麓に埋めて敵の手に渡らないようにしました。

しかしそれを掘り起こした人がいます。
徳川家康です。

徳川家康といえば武田家に三方ヶ原の戦いでコテンパンにされ、何度も滅亡させられそうになったのですが、この景徳院を建立し、勝頼の供養を行なったのも家康なのです。

何度も辛い目に遭わされながらも彼は武田家の強さや人材の優秀さに目をつけていました。
武田家滅亡後、織田信長は苛烈な残党狩りを行なったのに比較して家康は武田の武士を多く匿ました。その大部分が徳川四天王の一人、井伊直政につけられ赤備え隊として他の大名に恐れられる軍となります。


武田勝頼というと武田家を滅亡させた武将というレッテルが貼られ、長篠の戦いの大敗も合わせて評価されてきませんでした。

しかし近年再評価が進み、長篠の戦い以後の家中再建や領国経営などの手腕が評価され始めています。

何より敵方の織田信長が勝頼のことを「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給いて、かくならせ給う物かなと御仰けり」(三河物語)と、運がなかったが立派な弓取りだったと評価しているのです。

父信玄が残した遺産と戦い続け、武田家最大の領地を獲得した彼こそ日本史上最強の「敗者」だと思うのです。




おまけ
大月駅から見えるこの山、勝頼が逃げようとした岩殿城になります

ちなみに小山田信茂織田家に投降しましたが許してもらえず一族もろとも処刑されました。

城郭検定準一級受けてきました

どうも

表題の通り、城郭検定準一級を受けてきました。


「準一級」という文言がある通り、それなりの難易度の試験です。


「英検準一級と同じ準一級だしきっとキャリアの役に立つのかもしれない!!」
「この資格を取れば年収倍プッシュ!?!?」
「準一級!?城に詳しいの?!キャー結婚して!!!!」



みたいなご利益があるかもしれないと思ったそこのあなた、はじめに言っておきますがこの資格を取って年収が倍になった、彼女ができた、結婚できたという話は寡聞にして聞いたことがありません。悪しからず。


それじゃ受けても意味ないやんってお声も飛んできそうですが、完全に自己満足ってやつです。

あとは人に「日本史好きなんです!お城検定も合格してます!」っていうとほんのり本気度と狂気度が相手に伝わりますよね。

それで話の幅が広がって思いもよらぬご縁やらお仕事が降ってくるかもしれないのであります(その意味ではキャー結婚して!!案件も来ないかもわからないのです)

さて、実際どんな問題が出るのかというと、

根室半島にあるオンネモトチャシはチャシの形態としてはどれに当たるか?
河岸段丘上に郭群が東西に細長く配置され、本郭と二の郭の間に空堀があり、築城武将の特徴を示す三日月堀が確認されてる城はどれか?
・平屋建てで屋根のない門はどれか

…知らんがな
という感想しか出てこない問題ばっかでます。

お気付きの通りマニアのマニアによるマニアのための試験のため、絶対出世昇級結婚には繋がり得ないことがお分かりいただけたかと思います。

とはいえ受けてしまった以上受かっててほしいなぁと思うので気長に結果を待ちたいと思います。

おわり

ゴジラ キングオブモンスターズ見ました

どうも

先日ついにゴジラキングオブモンスターズが公開されました。

ゴジラを愛する者としてこれは見なければと思い吹き替え版と字幕版の視聴を終えました

どっちが良くてどっちが悪いということもなく、吹き替え版も安心して聞いていられる仕上がりとなっていました(特に木村佳乃さんの吹き替え良かったです。あと吹き替え版のエンドロールで判明しましたが、シンゴジラ巨災対の面々を演じた方が多数参加されていました。)

全体的な感想としてはツイッター等に各々が思い思いに書かれているのでそれを見ていただければと思うのですが、僕個人的な感想としては「僕らはゴジラをこんなにも愛している」というハリウッド側からのメッセージを受け取った、と感じました。

音楽では伊福部音楽をアレンジし、怪獣の呼称や兵器の名称等これまでのゴジラシリーズをちゃんと見てくれたのだな、と感じる場面が随所に盛り込まれていました。

ゴジラの扱いに関しては、前作のラストから示唆されていましたが「地球の守護者」という立ち位置を確固たるものにさせたと感じました。

これはギドラを除く他の怪獣も同じで必ずしも人間の味方ではないという意味です。(人類の味方と良く思われるモスラも初登場作品では容赦なく街を破壊しています)

核兵器保有国のアメリカが反核の象徴としてゴジラを描くことは難しいという面があるのかもしれませんが、地球環境の守護者として人類の上位に立つ存在(劇中では「神」とされています)として違和感なくアメリカ版ゴジラを完成させたと思います。


ただ、芹沢博士の描き方には賛否両論あるのではないかなと思いました。


ご存知の方もいるかと思いますが、芹沢博士といえば1954年のゴジラで、ゴジラを抹殺するための兵器「オキシジェンデストロイアー」を発明、この兵器が原爆、水爆と並ぶ兵器となることを恐れて設計図を焼却した上でゴジラに対して使用し自らも命を絶つという悲劇の科学者です。

今作のゴジラでは前作同様に渡辺謙さんが芹沢猪四郎博士として登場します(猪四郎という名は1954年ゴジラの監督、本多猪四郎氏から取ってます)

彼自身も父親を原爆によって亡くしているという過去を持ち、核の使用については反対の立場です。

しかし今回はゴジラを復活させるため核を使用するという役回りを演じています。
初代のリスペクトとであるならば、この描き方はちょっといただけないと感じる方もいるのではないかと思いました。(ネタバレしそうなのでフワッとしか書けなくて申し訳ない…)

ただ、彼がゴジラに言葉をかけるシーン、ここは涙なしには見られませんでした…はい…


と、こんな感じでネタバレにならない程度に簡単に感想書きました。

ファンサービスに溢れた映画ですが、CGを使用した映像美、迫力ある音楽など初見の方でも楽しめる内容となっています(可能なら1954年のゴジラと2014年のゴジラを見た上で見て頂きたいです)

ぜひ劇場へ足をお運びください

春日山城と御館

どうも

怒涛のゴールデンウィーク10連休、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

おそらく平成最後の城巡りになる今回、新潟県にあります上杉謙信の居城、春日山城に行ってまいりました。

実は人生初の新潟行きということで結構ワクワクしております。


まずは上越新幹線越後湯沢駅へ。冬場になるとスキー客で賑わうらしいですがGWでも観光客で賑わっておりました。

ここから私鉄で直江津駅、そして春日山駅に移動します。


こじんまりとした駅で、上杉謙信を大々的に推してるわけでもない、いたって普通の駅でした。こういうところ、好感が持てます。

駅前にあった交流館も落ち着いた雰囲気で良かったです。(市民から寄贈された本コーナーがあったのですがなぜか謙信関係の本がほとんどなかった…)

この駅から春日山城の麓までは大体歩いて30分、こういう地方都市にありがちな循環バスも、地方都市にありがちな時刻表の過疎り具合のせいで利用できなかったためテクテク徒歩で向かいます。

駅から少し歩くと謙信公通りという大通りに出ます。
基本的にはこの道をひたすら歩いていく感じになります

途中石垣好きを虜にするような石垣が!!

まさか石垣が街中に!?

某進学塾ばりの疑問と興奮を持ちつつ勇んで駆け寄ってみると…




トイレでした。くそッ


まぁお城までそれなりの距離がありますし、行く前にお腹下して三方ヶ原で敗戦した徳川家康よろしくお漏らししたまま登城する危険を少しでも排除すべくここでしっかり出すものは出しておきましょう。


大通りをどんどん進んで行くと目の前に大きな山が見えてきます。これがお城がある春日山

ザ・山城って感じがここからビンビン伝わってきます。

山に向かって歩いて行くと…


ついに到着、春日山城入り口です。

この春日山城上杉謙信のお父さんである長尾為景という人が城主としてこの城に入り、謙信、上杉景勝と代を重ねてきますが、豊臣秀吉によって上杉景勝会津に国替えされたあとは堀秀治という人が春日山城主として入城します。

しかし春日山城では平時の統治に不向きであり、当時港町として栄えていた直江津に近い場所に福島城を築城、そこに移ってしまったため春日山城は廃城となりました。

今では堀跡や曲輪の跡が残っているという次第です。

さて、山であるからにはここから登山が始まります。


案内板によるとこの道が春日山城への正式な道であるみたいです。この道をズンズン進んでいきます。


覚悟はしてましたが山です。山道です。

途中こういった番所の跡や家臣の屋敷跡がありますが、それを横目に登っていきます。


途中ピクミンがいそうな木がありました。


当時のお侍さんは重い鎧を着てこの山道を上り下りしたわけです。
戦から帰って本丸まで行くにはこの道を登らなきゃいけない。はっきりいって苦行。福利厚生のふの字もない。

辞令交付で山城勤務を言い渡された家臣はさぞ悲しみの涙を流したことでしょう。

こんなくだらないことを考えながら歩いていくとそれなりの高さになってきます。

山頂に近づくにつれて家臣の屋敷跡の敷地も大きくなっていきます。家臣の序列に従って大きくなっていくのでしょうか。

ちなみに柿崎和泉守という方、上杉謙信も一目置くほどの猛将で数多くの合戦で先陣を勤めては相手方に恐れられていた武将になります。
信長の野望では戦闘能力に能力値が全振りされて戦闘マシーンとしてしか使えない武将になっていますが、近年の研究では政治や外交でも活躍していたことが明らかになっておりかなりのハイスペ武将であったのではと思います。

重臣の柿崎和泉守、そして一門衆の上杉景勝の屋敷跡を超えると今度は井戸曲輪と呼ばれる場所に出ます。



今でも井戸の中には水がたまっています。
夜になると貞子とか出てきそうな感じの井戸ですが、ここが城内の水の手、生命線になります。

この井戸曲輪を登って行くと…



本丸跡、山頂です!!!
山頂からは上越市内、そして直江津を眼下におさめることができます。謙信も同じ眺めを見ていたのでしょうか。

前の方にある山にも城があり、春日山城の支城として機能していたようです。

この本丸から尾根伝いに降りていくと、


出陣前に謙信が篭って戦勝祈願したと言われる護摩堂の跡、そして進行していた毘沙門堂があります。



帯曲輪や空堀といった城らしい防御施設も観察できます。

この春日山城の中腹には春日山神社という神社があります。

御祭神は上杉謙信


多くの方が参拝しておりました。

調子に乗っておみくじを引いたところ

なんと大吉!!
令和も良い年になりますようにとお願いしてきました。

この神社の横手に上杉謙信の像が凛々しく建っています

この春日山城の麓、歩いて15分くらいのところに謙信やその一族が弔われているお寺、林泉寺があります。



1497年に長尾能景(謙信の祖父)という武将が開き、上杉謙信が幼少の頃修行したお寺になります。立派な山門に掲げられている「第一義」という額は謙信直筆になります(本物は宝物館に保管)

墓地に行くと長尾能景、長尾為景上杉謙信川中島合戦の戦死者供養塔、堀秀治の墓があります。




謙信の父である長尾為景という人、実は自分の主人である上杉房能という人を殺して自分が越後の支配者となろうとした、いわゆる下克上の化身のような人です。彼も生涯戦に明け暮れましたが、結局他の武将の支持を得られず隠居、長男の長尾晴景家督を譲ります。

しかしこの晴景、父為景とはうってかわって戦を好まず芸能面に才能を発揮してしまいまたまた武将たちの支持を得られなくなってしまいます。

そこで目をつけられたのが当時修行中の身であった長尾景虎、後の上杉謙信です。

謙信は為景の四男という立場でしたが、兄たちが次々と早死してしまったせいで後継として推されます。

その後晴景方と景虎方とで何度か争いが起きた結果景虎が勝利、無事大名として歩み出すことになるのです。

こういった少しドロドロした歴史が春日山城に残っています。

さて、舞台を春日山から港町である直江津に移しましょう。

この直江津には、先程ちらっと出てきた福島城という城跡があります。
そしてもう一つ、上杉家の歴史を語る上で外せないもう一つの史跡があります。

それがこちら

御館です(おたて、と読みます)

現在は完全に公園となっていますが、戦国時代にこの御館と春日山城を舞台に血みどろの上杉家の内紛が起こりました。

それが御館の乱

1578年、上杉謙信が急病で死去すると、上杉家には2人の後継候補が残されました。

1人は上杉景勝。もう1人は小田原北条氏から人質として送られ、のちに謙信の養子となった上杉景虎です。2人とも謙信の実施ではなかったのですが、景勝は謙信の姉の子、つまり甥っ子、景虎は謙信の姪を妻として迎えていました。

謙信死後の後始末で家中が混乱する中、上杉景勝と一部家家臣との関係が悪化、景勝に後継になってもらいたくない一派が上杉景虎を担ぎ上げたことで後継者争いが起きました。この辺りは当時の上杉家中の対立関係や派閥が大きく関わっています。

乱の当初は景勝が春日山城を占拠し軍資金も手に入れたため優位に立ったと思われましたが、景虎はこの御館に避難、さらにこの館の主人で上杉謙信に上杉という性を与えて養子にした上杉憲政を味方につけます。さらにさらに実家の小田原北条氏に援軍を送ってもらい、北条と同盟関係にあった武田勝頼にも援軍を送ってもらいます。

外からの勢力を味方につけることで景虎が一気に優位に立ったのです。

一方景勝方は譜代の家臣や国内の領主を味方につけていきましたが外に味方を持てませんでした。

そのため長年の敵であった武田勝頼と和睦するという道を選びます。

実はこの時、北条家は関東の他の敵と戦っていたため全力でこの内乱に介入出来ず、武田のみが痛い思いをしながら戦うという状況になっていました。そのため勝頼は北条家への不信感を募らせこの和睦案を了承します。
これに激怒した北条家はやっと援軍を越後に送り勝頼に考え直すよう迫りましたが、季節が冬だったこともあり北条家の侵攻も雪に阻まれて止まってしまいます。

こうして外圧を見事に排除した景勝は景虎方への総攻撃を開始、この御館を中心に激しい戦いが起こります。
過去にこの御館あとで発掘作業が行われた際は焼けた鉄砲の弾や簪と言った生活や戦の遺物が出土したようです。

御館を支えきれなくなった景虎は小田原へ逃げようとしますが、途中家臣の裏切りに遭い自害、館の主人上杉憲政も、景虎の息子を伴って助命嘆願をするために春日山城へ向かう途中景勝方の兵に襲われ2人とも殺害されてしまいます。

こうして御館の乱終結し、景勝の反対派が一掃されたわけですがこの内乱の傷跡は大きく、直後に織田信長の侵攻に直面、苦しい戦いを本能寺の変まで続けることになります。



案内板には、当時の御館はもっと広い敷地があったこと、そして御館の乱の説明が書かれています。

この御館と春日山城、距離が7キロほどしか離れておらず、この御館から春日山を見ることもできます。それくらい目と鼻の先で繰り広げられた戦いでした。

ということで一度行ってみたかった春日山城と御館にようやっと行くことができました。
新潟にはまだ謙信や景勝ゆかりのお城や史跡がまだまだあるのでどんどん訪れてみたいです

おわり