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岡崎史跡巡り②(岩津城、岩津天満宮、信光明寺、井田野古戦場、西光寺、若宮八幡宮、八柱神社その他諸々)

どうも

退職に伴い年末に岡崎を後にするため、岡崎に居られるのも以外と日数が少ないことに気づいちゃいました…

そこで悔いの残らないよう岡崎の史跡巡りをドンドン行っていこうと思います。3連休という精神的にゆとりがある土、日曜に色々見てきました。

①細川城趾

岡崎から北へ北へ、豊田市の方まで行く途中にひっそりと住宅地にあります。
承久の乱後、足利義季と言う人がこの地に住み、細川を名乗りました。この細川氏から戦国時代は細川幽斎、忠興親子、そして政治家の細川護熙さんが輩出されます。
今は石碑が建つのみで、土塁らしきものが少し確認できる程度です。

②岩津城・岩津八幡宮

岡崎というと岡崎城が思い浮かびますが以前紹介した能見城のように昔はあったお城が数多くあります。

そのうちの1つが岩津城という山城です。
岩津城の築城年は明らかになっていませんが松平氏三代目の松平信光が手に入れ岩津松平氏の本拠地となりました。(ちなみに家康は九代目)この信光はのちに安城方面に進出、岩津城は大切な支城の1つとなりました



城の西側に登城口があります。

遺構がきれいに保存されているため土塁や空堀を確認できます。

そして本丸には石碑があります。

この城は伊勢新九郎(のちの北条早雲)や武田信玄にも攻められたことがあるとか

この城の守護神として勧進されたのが岩津天満宮と言われています。
城から高速道路を横切る橋を渡ると鳥居があります。

長い階段

そして本殿です。

岩津天満宮から坂を下りると信光明寺があります


③信光明寺


門がありますがなんと保育園を横切る形になっています。しかし保育園は閉じていたのでぐるっと回り込んで寺へ。
観音堂重要文化財として登録されています。
室町時代の創建とのこと。
この寺も北条早雲の兵火に遭い観音堂を残して全焼、江戸時代にも火災があり規模も小さくなってしまったとのことです。
この寺は先程出てきた松平信光が建立し、初代親氏、2代目泰親の菩提を弔いました。奥まったところに初代から信光までのお墓があります。

さて、ここで岡崎と北条早雲の関係について少し話します。

北条早雲といえば下克上の申し子、素浪人から小田原城を奪い北条家繁栄の礎を築いた人として知られていますが、実際は素浪人ではなく室町幕府の官僚であり妹は駿河国主、今川氏に嫁いでいるという抜群の毛並みの良さを誇る人だったそうです。

そのため早雲も今川家に仕えており、今川が三河を攻略しようとした際に彼が将として攻めたわけです。なおこの時は松平側の決死の抵抗で退けられましたが各所に放火していったそうです。

この信光明寺から足助街道に出て南に行くと、あの方の誕生地があります。


それがこちら

本多忠勝誕生地です。

本多忠勝誕生地
本多忠勝といえば徳川家屈指の猛将でゲーム等でもメインキャラとなるくらいに著名です。
また生涯50回以上合戦に出ながら一度も手傷を負わなかったと言われています。

実はここもお城跡。
西蔵前城というお城があったそうです。

今では住宅地となっており遺構は伺えませんが、すぐ近くに大きな川が流れているため、川の利便性を活用しつつ堀としても機能させていた城なのではと思います。

さてここからさらに南に行くと大樹寺があります。

大樹寺

大樹寺は徳川家の菩提寺として江戸時代にも将軍家に篤く信仰されたお寺です。

立派な門ですが徳川家光の建立で指定文化財となっています。
大樹寺の白壁も残っていますがもう一つ面白いものが。
なんとこの寺から岡崎城を見ることが出来ます。(写真だとかなり見にくいですが…)
これをビスタラインと言っており、徳川家光が意図的に配置したそうです。それくらい岡崎城大樹寺は徳川家のシンボルでもあったのです。ちなみにこのライン城には高層建築物は建てられません。


門から本堂は一本道。そして本堂では拝観料400円を支払うことで収蔵蔵、そして歴代江戸幕府将軍の位牌を見ることができます。しかもその位牌の高さが将軍の身長と同じなのです。ちなみに家康の位牌の高さは159センチらしいです。

そして境内から脇に逸れた墓地では歴代松平氏のお墓があります。



さらに家康の祖父、松平清康が建立した多宝塔があります。大樹寺内で最も古い建造物とのこと。

さて、この大樹寺、一つの話が伝わっています。

1560年、桶狭間の戦い今川義元織田信長に討ち取られた時、徳川家康は今川方として戦っていました。しかし総大将討ち死にという事で彼も命からがら岡崎に戻ることになります。

しかしこの時岡崎は今川の武将が居座っておりひとまず大樹寺に入りました。それに目をつけたのが野武士や追撃してきた織田方。家康の首を差し出すよう寺側に要求しますがこの寺のお坊さんは拒むとともに追い払うために戦いを挑みました。

門の閂を持って戦った僧もおり、激戦の末になんとか退かせることに成功、しかし多数の僧が討ち死にしたというものです。これを大樹寺の陣と言います。

なおこの時家康は自害しようとしましたが和尚さんから「厭離穢土欣求浄土」の思想を教わり、生涯の思想として旗印にもしました。

そもそもこの寺、一体誰がどのような目的で建てたのでしょうか?
この答えを示す寺に次は向かいます。

⑥井田野古戦場・西光寺

大樹寺からさらに南に進んだところに西光寺という寺があります。

この寺がある土地を井田野と言いますが、こちらの写真をご覧ください
かなり高台になっており平野を一望出来ます。
岡崎を治める側からすればここを取られたら自分たちの動きが丸わかり、敵からすればなんとしても欲しい土地なわけです。

松平氏が勢力を拡大して行く過程で、周辺土豪との軋轢も深まっていき、三代目信光の頃から戦が頻発するようになります。特にこの井田野では何度も戦が起こりその度に多くの死者が出ました。

応仁元年(1467)の井田野合戦に勝った松平親忠松平信光の息子で松平四代目)は、戦死者のために念仏堂(今の西光寺)を建て、敵味方区別無く埋葬して塚を築いて弔い、後に千人塚と呼ばれるようになったのです。
こちらが千人塚です。

そしてこの松平親忠こそ、大樹寺を創建した方です。

井田野合戦後、周辺地域では夜な夜な馬の嗎や刀の音などが聞こえるなどの怪奇現象が起きました。
さらには疫病も流行します。

これは戦死者の祟りだと考えた親忠は聖総というお坊さんを招き、一つのお寺を建立します。


これが大樹寺なのです。

元々は戦死者供養のために建てられた寺なのです。

ちなみにこの聖総、関東にある光明寺という寺を増上寺と改め関東における浄土宗の道場としました。

この増上寺、徳川将軍のお墓が多数あるお寺であり風水における、江戸城の裏鬼門の抑えとしていまは東京都港区芝の地にあります。ちなみに鬼門の抑えは上野寛永寺が担っています。

かなり話が逸れましたが、この西光寺にはもう一つ、塚があります。

それがこちら

これは大衆塚といいます。上にいますは阿弥陀如来像。
先程大樹寺の陣の話をしました。家康を守るために多くの僧が死んだと。

その僧の霊を慰めるために築かれました。

西光寺と大樹寺、共に松平氏が発展する上で流れた血にまつわる歴史を持つお寺でした。

そしてこの井田野のすぐ近くにはお城があります。

⑦井田城
井田城は松平氏重臣、酒井家のお城で、ここで徳川四天王の一人、酒井忠次は生まれました。

今は公園となっており、住みの方に稲荷様がいらっしゃいます。
由緒書もありますが、周りが住宅地のため遺構はありません。ただ周囲よりも高台になっているので城を作るにはいい地点だと思います。

さて、またまた南に行きます。
次に行った場所はこちら

若宮八幡宮


国道1号線を東に行き、少し道から逸れるとひっそりとした八幡宮があります。

じつはここ、徳川家康長男、信康の首塚があります。

家康の息子というと秀忠が有名です。だって二代将軍ですし。

しかし秀忠が成長する前に信康は命を落とします。昨年の大河ドラマ「おんな城主直虎」でも描かれていた信康事件です。

事の経緯は家康と築山御前(瀬名姫)の婚姻から始まります。
今川氏の人質であった家康は今川一族の姫を奥さんに迎えます。それが瀬名姫です。今川義元の姪に当たる人と言われています。

桶狭間合戦後、家康は今川から独立、逆に今川攻めを行います。夫が実家と戦う、瀬名姫の苦労が偲ばれます。
家康はのちに居城を浜松へと移しますが瀬名姫はついていかず、岡崎にとどまります。その後築山御前と呼ばれるようになりました。

この築山御前との間に生まれたのが信康です。
そして信康は織田信長の娘、徳姫を正室に迎えます。

問題なのは徳姫と信康の関係があまりよろしくなかったこと。徳姫は信康の素行について信長に告げ口、信長もただの夫婦喧嘩だろうと甘くみてたらなんと信康が当時敵対していた武田勝頼に内通しているとの噂が。さらに母である築山御前も加担しているとか。

驚いた信長は家康に真相究明を命じ、弁解のため家康家臣、酒井忠次が信長の元に派遣されます。
しかし弁解すべき忠次は徳姫からの告げ口をほぼ認めてしまいます。その後信長は築山御前と信康の処断を要求、築山御前は殺され信康は切腹させられます。

首は信長に見せられた後家康に返却され、ここ若宮八幡宮に葬られました。

さて、この信康事件は謎なことが多く、近年では徳姫との不仲や内通疑惑ではなく家康との不仲が原因ではないかとの見方も出ています。

当時信康は岡崎城主であり、家臣も岡崎中心の人たちでしたが、家康は浜松におり手柄をあげる者も浜松にいる人が多く、家臣団の間に派閥がけいせいされていた。そのため岡崎派に祭り上げられた信康と家康の間に深刻な対立が生じていたという説です。

このように信康、築山御前の死にはいろんな説が出されるほどわからないことが多いのです。

しかし腐っても親子、そして夫婦。家康の悲しさがひしひしと伝わってきます。

こちらが首塚です。岡崎信康の旗がたくさん立てられ、柵に囲まれていました。

この若宮八幡宮から今度は北に行き、岡崎女子大学の近くにある八柱神社に向かいます。

八柱神社
少し山を登ったところに鎮座しています。
ここにはこちらがあります。

信康事件のもう一人の犠牲者、築山御前の首塚です。かなりひっそりとした場所にあります。
謀反に加担した者として葬ることができなかったのでしょうか…

ちなみに静岡県浜松市には築山御前のお墓があり、殺害するのに使われた刀を洗った場所の石碑があるとのことです。いつか行ってみたいです。
神社も小さめでひっそりと地域を見守っている感じです。

さて今度は西に進路を取り、安城方面に行きます。

西岡崎駅の近くにあるこちらの寺へ向かいました。
妙源寺
文暦2年(1235年)、親鸞が関東より帰郷する途中、当地に立ち寄ったことが始まりとされています。

三河一向一揆の際、徳川家康は本寺に身を寄せ難を逃れ、これにより家康から「源」の一字を与えられ、妙源寺と改称したそうです。

立派な門と柳堂の石碑があります。

この柳堂は市の重要文化財に指定されています。




また境内にある墓地には、本多忠豊(本多忠勝の祖父)、長坂血槍九郎(すごい名前だが槍の名手であったために付けられた)、平岩親吉と言った家康の家臣たちの墓がありました。

この妙源寺から安城方面へ剣道78号線を進みますと1つの城跡があります

11 安祥城

この安祥城は三度も合戦があった場所になります。

本丸跡には大乗寺があります。
岩津を取った松平信光がのちに本拠をここに移しました。その後松平清康(家康のおじいちゃん)は本拠を岡崎に移しますが、彼が殺された後、尾張織田信秀織田信長のパパ)が三河攻略の前線基地として占領します。以後松平氏織田氏の間で争奪戦が繰り広げられました。



城の一部は公園、神社となっており市民の憩いの場となっています。


そしてここには本多忠高という武士の討死碑もあります。安祥城の戦いで本丸近くまで攻め込んだ忠高ですがここで敵の矢にあたり討死したそうです。ちなみにこの忠高は本多忠勝の父親になります。


ちなみにこの石碑から北へ500メートルくらい行った住宅地には先程出てきた本多忠豊の討死碑もあります。主君の身代わりになって討死したのだそうです。
普通に住宅地のため見落としそうでした。


これを見ていると本多一族は常に松平氏に忠誠を誓って戦い抜いた一族なんだなということが伝わります。


さあさあ、ここから北へ200メートルくらいさらに行くともう一つお城があります。
それがこちら
12山崎城趾



こちらも城跡のためすでに遺構はありません。
松平清康の息子、松平信孝という人がこの地に城を築き三河地方を制圧しようとしたそうです。
その後保科正直という人がこの地を治め、すぐ近くの正法寺に屋敷を構えたため廃城となったそうです。


すぐ近くにあったため正法寺、行ってきました。少し荒れている感じでしたが案内板もありました。

ところでこの保科正直という人は、私の大好きな城、長野県高遠城の城主でもありました。

さて、いよいよ史跡巡りも大詰めです。
岡崎に戻る途中、矢作川沿いにある諏訪神社にはこんな石碑がありました。

13諏訪神社、渡古戦場



渡古戦場という石碑が立っています。ここでは松平広忠松平信孝が戦を行った古戦場です。清康死後、松平一族は分裂し三河は内乱状態となりました。ここ渡でもその戦いが行われました。

この諏訪神社から北へ行くと今度はとある一族の発祥地があります
14鳥居一族発祥地

鳥居一族です。
鳥居氏は代々松平氏に仕え、鳥居忠吉という人はいつか家康が岡崎を治めることを見据え密かに年貢や金銭を蓄えていた忠臣として知られています。
その息子、鳥居元忠も家康に忠誠を尽くし、関ヶ原の合戦では伏見城を守って討死しました。
それらの功績から鳥居氏は譜代として存続していくこととなります。


とりあえずこれで今回の史跡巡りはおわりです。
いやー2日がかりだった…しかもグーグル先生がいなかったら周りきれなかったな…

ちなみに岡崎に観光で来る人でこれらの史跡を巡りたい人はおとなしく車か自転車を借りましょう!



岡崎は家康が生まれた街、天下統一の覇業が始まった場所、このように世間の人には認知されています。観光としても家康生誕の地という面を前面に押し出しています。

しかし岡崎はそれだけではありません。

家康が天下を取るために必要だった「基盤」を整えるために、何代にもわたって戦いを繰り広げ、血がたくさん流れました。その度に人々は平和を願い数多くの寺院が建てられ、岡崎の街並みに溶け込んできました。

そしてその寺、神社には数多くの人の無念や働きが今も息づいています。

岡崎は家康が生まれた街、だけではないのです。
松平一族と岡崎に住む人たちが連綿とこの土地を守るために戦い抜いた苦難の歴史を持つ、大変大きな意味を持つ街なのです。

以前私の地元紹介記事を書きましたが、地方には地方の歴史があります。日本史の教科書に載るような大きな出来事ではないにしても、その場所で何か戦いがあって、巻き込まれた人の血が流れて、それを慰霊して…その繰り返しで街には塚なり神社仏閣が建てられ、今に伝わっています。おそらくこれは日本中どこの街にも見られることだと思います。

仰々しい建物や豪華絢爛な建物だけが史跡、観光地ではありません。

みなさんの住む街にも先人の願いや想いが息づく場所がないか、探してみてください。


おまけ

榊原康政本多忠勝酒井忠次(井田城)生誕の地制覇しました
残りは井伊直政