今年最後の城巡り(石神井城・高安寺)
どうも
ついに東京一人暮らしが始まりました。
いやぁ東京で一人暮らしするのずっと憧れだったんですよ。大学は東北地方に行っちゃうし大学院は東京だったけど栃木から通ってたりで全然住めなかったのについに済むことができ法的にも都民になりました。
ということで今回は自宅から最も近い(と思われる)城、石神井城と個人的に行って見たかった高安寺に行きました。
西武池袋線で石神井公園駅へ
この駅から5分ほど歩くと石神井公園に着きます。
ど根性カエルの作者が住んでる街でもあるようでその案内もあります。
石神井公園に着いてさらに公園の奥へと歩いて行くと石神井城の案内板が現れます。
石神井城は元々豊島氏のお城です。
平安以来名族として名を馳せていた豊島氏は室町時代、新興勢力の扇谷上杉氏の家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱による動乱の中で太田道灌に攻められ没落しました。
この長尾景春の乱ですが、関東における戦国時代を演出したかなりゴタゴタぐちゃぐちゃな戦乱です。とても私の技量ではまとめきれない…
太田道灌に城を落とされた豊島氏は逃亡しましたが以降資料に出てこなくなります。
関東の動乱を今に伝える貴重な史跡です。
宅地化が進む東京において、かなり良好に土塁が残っています。
城の近くには氷川神社があり、室町時代に豊島氏が創建したものです。
近くには三宝寺池という池もあり、石神井城が落とされた際にこの城のお姫様が身を投げたとの伝承もあります。
次の目的地、高安寺に向かいます。
個人的に「声に出して読みたい駅名」No.1である「分倍河原駅」に到着。
高安寺に行く前に少し寄り道します。
新田義貞です。
分倍河原と新田義貞、どんな関係があるのか、それをこれから見ていこうと思います。
駅から住宅地を抜けるととある街道に出ます。
鎌倉街道です。
名前の通り鎌倉に続く道です。
ここでかつて大きな大きな戦いがありました
それが分倍河原の戦いです。
鎌倉時代、後醍醐天皇に呼応した新田義貞と、彼を防ごうと出陣して来た鎌倉幕府軍がこの地で激突、新田義貞が大勝した戦いです。
今では石碑を残すのみですが、新田義貞の優勢を決定づけた戦いです。
そんな新田義貞が本陣を置いたのが高安寺です。
高安寺はこの分倍河原古戦場跡と線路を挟んで反対側にあります。
本堂と山門です。
元々は藤原秀郷の居館跡と言われています。
藤原秀郷ですが、平将門を討ち取ったり巨大ムカデの退治話だったりと伝説も絡み合った平安時代の武将です。我が故郷、栃木県とも深い繋がりがあります。
この高安寺は城郭的な役割も持ち、新田義貞が本陣として使用した以外にも、小山義政の乱鎮圧のために出陣した鎌倉公方足利氏満や、応永の乱(1399年に山口県の守護大内義弘が起こした反乱)に呼応し幕府を倒そうとした足利満兼が本陣として利用しました。
この他も数多くの戦乱で利用されましたが、宅地化や荒廃が進み城としての遺構はあまり残っていません。(ただ周囲の土地よりも若干高い位置にあるため見晴らしは良いのではと思いました。)
足利尊氏が開基したこともあり、足利氏の家紋が随所にあしらわれています。
さらに武蔵坊弁慶に関する伝説も残っています。
平家を滅ぼし、棟梁の平宗盛を護送して鎌倉に凱旋しようとした源義経は、兄頼朝の怒りを買い鎌倉に入ることはできませんでした。
結局許しを得られないまま京都へ帰る途中で立ち寄ったのが見性寺(高安寺の前身)。
義経は、弁慶らと赦免祈願のため大般若経を書写することにします。その時に弁慶が清水を汲み取った井戸が残されています。
高安寺は度重なる戦乱で荒廃してしまいましたが、江戸時代に入って復興、多摩地方を代表する古刹として今も残っています。
さて、
もうすぐ2018年も終わりですが
なんとこのブログ、
開設1周年となります!!
いやぁここまで続けることもできたのも読者の皆様のおかげです。
本当にありがとうございます!!
お城ブログと言いながら痔の話や退職の話もしていましたが、おかげさまでなんとか続けられました。
僕のブログを読んで、お城に行ってみようって気になった人がいたらこれに勝る喜びはありません。
来年も続けていきますので今後ともよろしくお願いします(作文能力の向上は喫緊の課題)
それでは良いお年を〜!