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謙信ごっこ(小田原城と鶴岡八幡宮)

どうも

皆さんはもう初詣に行きましたか?

栃木や岡崎に住んでいた時はだいたいその土地の神さまというような由緒ある神社が1つあったのでそこに行っていたのですが東京となると無数の大神社があってどこに行けば良いか悩ましい。お陰で僕はまだ初詣に行けてませんでした。

そんな時、自分のツイッターアカウント名を見ると「関東管領れー丸」と書いてありました。

岡崎にいた時は「三河守れー丸」というようにその時住んでいた土地の旧国名に当てはめてアカウント名を決めていたのですが、東京に来た嬉しさで関東全土を治める役職名を不遜にも冠していたのです。

ちなみに関東管領とは、室町時代に関東を治めるために幕府が置いた出先機関「鎌倉府」を補佐する役目として代々上杉氏に世襲されてきた役職です。

最後の関東管領は、ゲーム等でお馴染み、あの上杉謙信なのですが、彼は上杉氏の家臣、長尾氏の出身でした。初名は長尾景虎といいます。
しかし当時の関東管領上杉憲政が小田原北条家に攻められて越後に亡命、関東管領と上杉の名を継いで北条を倒してほしいと泣きつかれます。

これを了承した謙信は以後の人生で何度も関東への侵攻を行いました。

さて、この謙信が関東管領に就任する際、小田原城を攻め、越後に帰国する途中に鶴岡八幡宮にて関東管領就任式を行いました。


関東管領を名乗るからにはそれなりに手順を踏まなければいけない。今回はこの謙信の手順を参考に正式に関東管領に就任しようと思います。



ということで小田原城へ。ちゃんと城攻めから手順を踏んでいきます。

小田原駅に着いて城がある出口とは逆方向に降りると北条家初代、北条早雲銅像が迎えてくれます。

城とは逆の出口に出ていますが一旦は城に向かって歩いていきます。


途中このような道標があります。
江戸時代、この近辺がどんな町だったのかを教えてくれます。

トンネルを抜けて線路を潜ると八幡山郭跡という看板と高台があります。

小田原城は戦国時代随一の広さを誇っていました。
その理由は総構えと呼ばれる、街全体をすっぽり城の一部として囲っていたからです。

小田原城主北条家は1590年に豊臣秀吉による侵攻を受けます。その際大軍の包囲に対処するため進撃の巨人よろしく街全体を堀で囲ったのです。まさにウォール・オダワラ。

その際に作られた堀や土塁の跡が今でも街に残されているのです。

今いる場所もまさにその発掘が行われた場所だとか。



この高台に登ると小田原城天守閣を間近に見ることができます。

城を横目に進んでいき、途中城から離れて西に向かって歩いていきます。競輪場を横目に歩くとこのような神社が。



大久保神社です。

北条家が倒された後、関東には徳川家康が移封されます。彼は本拠地を江戸に定めたため小田原には重臣大久保忠世が赴任しました。

ちなみに愛知県岡崎市にはこの大久保一族発祥の地が残っています。

大久保氏による治世を讃えこのような神社が作られました。

神社を超えてさらに西に向かうとこのような案内が。

総構えを作る際に築かれた空堀です。小田原城はかなり広範囲に作られたためこのような空堀もそれなりに残っています。

かなり凹凸が激しいですがこの堀を渡っていかないと城には辿り着けません。しかもこの堀切は城から約1.5キロのところにあるため城に着く前にかなりの損害を受けてしまいます。

それにしてもかなり保存状態がいいです。
堀切がある高台からの眺め。海が見える!



近くには土塁の跡も残っています。小田原城はこのように空堀と土塁をふんだんに使ってその防御を鉄壁にしていったのです。

さてここから小田原城本丸を目指します。

途中山角天神社があります。
菅原道真を祭っているそうですがもう一つ、ある方の銅像が置かれています。

それがこの方、瓜生外吉

誰?って言う人も多いかと思いますが、明治時代の海軍軍人で日露戦争の仁川沖の海戦で活躍して海軍大将、男爵にまで上り詰めます。

この人の別邸がすぐ近くにあったのだそうです。


さらに同じ道沿いにはもう一つ史跡があります。
対潮閣です。ここは坂の上の雲でお馴染みの秋山真之の終焉の地です。
今は個人宅になっています。

ここからさらに城に向かって歩いていくと箱根口から城内に入れます。


門をいくつか抜けていくと天守閣がお目見えです。中は博物館になっています。

銅門(あかがねもん)から外に出ようとするとこのように枡形虎口となっています。

外はしかも水堀があります。先ほどの堀切といいとことん人を殺すための機能に満ち溢れたお城です。
城を出て駅に向かって歩いてさらに飲屋街っぽいところを抜けるとこのような場所が。

北条氏政・氏照兄弟のお墓です。

豊臣秀吉小田原城を開城した北条家ですが、当主の北条氏直は助命されました。

しかし開戦の責任を取る形で主戦派と目されていたお父さんの北条氏政、そして彼の弟北条氏照切腹することとなります。

小田原城をぐるっと回る形で今回は歩いてみましたが、近代的な石垣と天守閣を持つ小田原城とはまた違った側面を発見できた城攻めでした。

小田原城攻めがひと段落したので次は鎌倉鶴岡八幡宮に向かいます。


さすが鶴岡八幡宮、正月からそれなりの日にちが経つのに結構人がいます。

今年一年の多幸を祈り関東管領就任を報告しつつ、初詣なのでおみくじを引きました。

パカっ!

なんかあまり多幸感はない内容です。特に縁談。
気を取り直して行ってみたかった神社に行きます。
それがこちら


鎌倉宮です。こちらに祀られているのは大塔宮護良親王後醍醐天皇の皇子になります。元々はお坊さんでしたが父後醍醐天皇の倒幕戦争に参加し、自ら軍を指揮するなど勇ましい活躍をします。
鎌倉幕府滅亡後、護良親王と対立していた足利尊氏親王を鎌倉に幽閉します。

しかし鎌倉幕府の残党北条時行鎌倉幕府最後の執権、北条高時の息子)が蜂起、鎌倉に迫ります。(中先代の乱

この時鎌倉を預かっていた尊氏の弟、足利直義親王北条時行と結びつくのを恐れて親王を暗殺します。

長らく世間から忘れられていた護良親王でしたが、明治時代に入り明治天皇はこの親王の功績を讃えて親王を祀る神社を造るよう命じます。そうして造られたのがこの神社です。


神社の裏手には親王が幽閉されていたとされる土牢があります。
しかし最近の研究では屋敷の中だったのではという意見も出て来ているため真偽のほどはわかりません。

鶴岡八幡宮と違ってこちらは落ち着いた雰囲気、おみくじもまじめに、新年にふさわしい結果が出るのではないかという期待を込めて振ります。

パカっ!

末吉

…うん。末吉。正直微妙。

さて最後に向かうは宝戒寺。いぜん鎌倉巡りのブログにも紹介した、鎌倉北条氏の菩提を弔うために足利尊氏によって建立されたお寺です。(ここでスマホのバッテリーが残り1パーセントになるという驚異的な減少を見せたため写真はありません。ごめんなさい。)

ここで3度目の正直、大吉を狙っておみくじチャレンジ

パカっ!!!

またしても吉

なんなんでしょう、鎌倉の寺社仏閣にはおみくじに大吉を入れないという決まりでもあるのでしょうか?2019年が少し思いやられます。

このまま大吉を引くまで帰れま10をやっても良いのですがスマホのバッテリーが残り少なすぎるので帰りました。

小田原城鶴岡八幡宮、ひとまず両方回って上杉謙信ごっこしました。小田原城は広いし鶴岡八幡宮はたくさん人がいる。とりわけ両方解説するとやたら北条さんがたくさん出てくる。

新年早々とそれなりに濃い史跡巡りができました。

おまけ
書き初めです。今年はこれらの言葉を胸に日々を生きていきます。