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川越城!!

どうも

先日西武新宿駅に行ったらこんな自販機がありました

アニメ「月がきれい」のイラストが描かれた自販機です。
小太郎くんと茜ちゃんが住む街が川越だったのですが、西武新宿線を使えば川越まで1時間くらいで行けることをアピールしていたのかもしれません。

ということで、僕も蔵の街と川越城を見に行きました。

ちなみに月がきれい、すごいキュンキュンするアニメですが、あまりにもキュンキュンしすぎて恋愛偏差値の足りてない僕は毎回心臓が止まり白目剥きながらみてました。





ということで本川越駅から歩くこと10分くらいで昔ながらの建物が立ち並ぶ区画に着きました。
川越は江戸時代からさまざまな特産品を産出、それを江戸に供給していたため「江戸の台所」と呼ばれていた歴史があります。
城下町も栄え、川越藩は代々親藩譜代大名が封じられたこともあり幕府からも目をかけられていた土地でもありました。

スターバックスコーヒーがちゃんと景観に考慮した外観をしていたことが印象的でした。



蔵の街を抜けて市役所に行くと太田道灌銅像が立っています。

この太田道灌こそが川越城を築いた人です。
室町時代(1457年)、関東地方は古河に本拠を置いていた古河公方南関東を勢力下に置いていた関東管領上杉氏の対立の最中にありました。

時の上杉家当主、上杉持朝から命を受けた太田道灌武蔵野台地の北端に位置する川越に城を築きました。

これが川越城です。

元々はかなり大きな城だったようですが明治に入ってから廃城令によって多くの施設が取り壊しになり市街地化していきました。


本丸に向かう途中には当時の堀を整備し直して公開しています。かなり深い堀が掘られていたことがわかります。



川越城といえばよく出てくるのが本丸御殿です。川越城天守はなく、富士見櫓が天守の代わりをしていました。この本丸御殿は江戸時代末期に作られたものです。





内部は撮影可能です(しかも入館料100円!!安い!!)

家臣の詰所が設けられ、使用されていた鬼瓦が展示されていました。

この本丸御殿も多くの部分が取り壊されましたが大広間がきちんと残っているのは高知城川越城だけで全国的にもかなり貴重な遺構です。




川越城から北西に向かって歩くと東明寺があります。

ここ川越が戦場となった戦が戦国時代に行われました。

それが1546年に起きた川越夜戦です。

関東地方では古河公方と上杉家が対立していたと前述しましたが、駿河今川家に仕えていた伊勢新九郎(後に北条早雲として知られる)が小田原を本拠として以降、代々関東地方を制圧し始めると古河公方と上杉家は危機感を覚えともに連携するようになります。

そして北条家三代目、北条氏康家督を継ぐと、当時川越城を北条家に奪われていた上杉家と古河公方足利家は連合して川越城に攻めかかります。その数約8万。

対する北条側は福島綱成が約3千の兵で立て篭もりますがかなり苦しい戦いを強いられ氏康に援軍を要請します。

氏康は8千の兵で後詰に向かいますがそれでも兵力差はほとんど変わりません。

そこで氏康がどんな戦法に出たかというと土下座戦法を繰り返しました。

何度も相手側に有利な和睦交渉、さらには降伏まで申し出て相手を油断させていきます。

当初は拒んでいた足利・上杉軍ですが何度も申し込まれたため徐々に楽勝気分が軍に蔓延し出します。

氏康はこの時を見逃しませんでした。
夜陰に紛れ密かに軍を動かし足利側に夜襲を仕掛けます。さらに城側からも打って出て上杉軍に襲いかかります。

これに足利・上杉軍は大混乱して、扇谷上杉家主上杉朝定が討ち死に、山内上杉家当主上杉憲政が戦場から離脱、古河公方足利晴氏もなんとか逃げることができました。

この時の激戦が行われたのがここ東明寺、境内にはその石碑も立っています。

この戦の後、北条氏康は関東における確固とした地位を固め関東制圧を行います。

そして負けた古河公方は北条家に降伏することを余儀なくされます。そして山内上杉家の当主上杉憲政はしばらくして越後に亡命、越後国主、長尾景虎に援助を要請します。

この長尾景虎がのちに上杉の家督を譲られ上杉謙信となります。

伝統的な街並みだけでなく史跡も多い川越、是非お越しください。