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高幡城跡

どうも

高幡不動に行ってまいりました

京王線で新宿からそこまで時間をかけずに行けるようです。
駅舎も立派でした。



駅を出てすぐに商店街の入り口があり、その先に山門らしきものが見えます。



案内板によると、室町時代に建てられその後何度か補修工事がなされているみたいです。

ちなみに高幡不動ですが正式には金剛寺という名前なんだそうです。奈良時代行基による開基とも言われていますが、お寺のHPでは、「平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によってこの地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。」と書いています。



境内では新撰組副長の土方歳三銅像、さらに局長の近藤勇との顕彰碑があります。2人とも多摩地方の出身であり、さらに高幡不動は土方の菩提寺でもあるのです。

大きな本堂もありました。



本堂の裏手には「上杉憲顕の墳」と書かれた上杉堂があります。

この上杉憲顕ですが、父は上杉禅秀という人です。
1416年に鎌倉公方足利持氏に反乱を起こし、のちに上杉禅秀の乱と呼ばれる事件を起こします。

乱を起こした原因は禅秀が鎌倉公方を持氏からから彼らの親族である足利満隆、持仲らに継がせ実権を握ろうとした、ということが言われています。

しかし結局この乱は失敗し、上杉禅秀は戦死、憲顕も父と一緒に反乱を起こしましたが、途中病にかかり戦線から外れたため死なずに済みました。

その後、足利持氏は幕府に反乱を起こして戦死、この成氏が跡を継ぎますが、この成氏が彼の補佐役である上杉憲忠を暗殺したため鎌倉公方足利成氏関東管領上杉氏の戦いが起きます(享徳の乱
憲顕は上杉方として足利成氏と戦いますが1455年に立河原の戦いで敗北し、この高幡不動まで逃げてそこで自刃します。
このお堂はその時の墓になります。


境内にはさらに五重塔もあります。


この高幡不動の裏手にある山に、高幡城があります。


山道沿いには四国八十八霊場に見立てて88個のお地蔵様が安置されています。

舐めていましたがそれなりに階段、山道を登って行くことになります。
夏なので蜂とかがいそうでビクビクしながら登りました。

29番からさらに階段を上ると広場に出ます



この広場が高幡城の本丸跡と呼ばれています

眺めはめちゃくちゃいいです

ただ虫が多いですね
別の登り口にはきちんと看板が立ってました。
登山用の道が整備されていることもあり、結構遺構とかは消えている感じです。

そこまで大きい城ではないため、おそらく別の城の支城として機能していたのだと思います。
しかし、先程上杉憲顕の墓を紹介したようにここに逃げてくるくらいですから何かしらの防備施設が当時からあり、戦える城だったのではとも思えます。

ちなみに高幡不動には上杉謙信と北条氏が同盟した時の書状が多数残されているそうです。

高幡不動と合わせて観光するとなかなか楽しい所でした

おわり