旅行記

旅行記メインの沼ブログ

吉良邸

どうも

先日両国に行く用事があったのでついでに周辺の史跡巡りをしてきました。

まずはじめに訪れたのがこちら、回向院
正門が絶賛工事中でした。
この回向院は1657年に起きた明暦の大火で亡くなった方々を葬った万人塚が始まりです。

その後、人、その他の動物を区別なく弔うという方針になりさまざまな動物が供養されています。


回向院で弔われている著名人や文化人の説明、さらには海難事故に遭い犠牲になった人たちを紹介する案内板が建てられています。

こちらはペットを始めとする動物達の供養塔です。かなり迫力のある塔です。


傍らには石碑による供養塔が立ち並んでます。
厳粛な空気が漂っています。

ちなみに回向院の隣にはこんな建物があったようです

そうです国技館です!

回向院で天保年間に相撲が行われていたようです。

この回向院から東に歩いて行くととあるお方の屋敷跡があります。

それがこちら

吉良邸跡です!
吉良と書いてキラと読みます。デスノートの奴ではありません。

ここは毎年年末になると大型時代劇の題材になる忠臣蔵の討ち入り舞台となっています。

1701年に赤穂藩主、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城松の廊下において吉良上野介に突如斬りかかります。
一説によると浅野内匠頭が恨みを吉良に対して抱いていたと言われていますが諸説あります。

この時、吉良上野介が刀を抜かなかったため浅野による一方的な犯行となり喧嘩両成敗法が適用されませんでした。

また、この斬りつけた日が朝廷からの勅使を歓待する日に当たっていたため時の将軍徳川綱吉は浅野に対し即日切腹を言い渡します。

しかしこれに納得しないのが浅野家家臣達。

吉良も当然なんらかの処罰が降るべきと思っていたのにお咎めなしとされたからです。

その後、赤穂藩は改易、家臣達も浪人となります。唯一の望みは内匠頭の弟が家を継ぐことでしたがその弟も蟄居を命じられてしまったためお家再興の動きが封じられてしまいました。

ここにいたり、赤穂浪士側では仇討ちを行う機運が高まっていきます。赤穂藩家老、大石内蔵助がなんとか浪士の決起を抑えていましたが、この蟄居をきっかけに討ち入りを決定しました。

神文返しをはじめとした、討ち入りメンバーを決める活動がここから始まっていきます。

そして1703年12月14日、ついに吉良邸に討ち入ります。


吉良邸の案内板です。


赤穂事件を伝える碑文と上野介の像です。


境内には松坂稲荷という神社があります。
徳川家康が関東に国替えになった際にこの地に兼春稲荷を作ったもので、のちに上野稲荷と合祀されて今の形になりました。


屋敷跡から少し歩くと正門跡の案内板があります
そして首洗いの井戸

討ち入りは赤穂浪士側の完全勝利となり、ドラマで見られるように吉良上野介は首を取られ、泉岳寺に眠る浅野内匠頭の墓前に供えられます。

この討ち入りは幕府内でも侃侃諤諤の論争が行われ、赤穂浪士への処罰が降ります。

それが切腹

徒党を組んで押し入り行為を働いた、というのが理由ですが当時の世情を鑑みて名誉が守られる切腹が選ばれました。(当時浪士側に同情する意見が数多くあったようです)

赤穂浪士はそれぞれの大名家に預けられ切腹することになります。
各大名家でもこの行為が賞賛され高待遇を受けたことが伝わっています。

さて、討たれた側の吉良上野介ですが、子供の吉良義周に対して信濃高島藩にお預けという命令が降り、20歳で死去したため吉良家は断絶し、別家が今に伝わっています。

この吉良上野介、後世すこぶる評判が悪く、当時から他の人からも恨みを買っていたという話があります。さらに自分の領地では善政を敷いたため名君と呼ばれていた、とこれまで言われていましたが最近はそれすらも見直しが入っているようでありいよいよ可哀想に思えてきます。さらなる評価や研究の進展が望まれます。

(そういえば以前、泉岳寺に行った記事書いてましたね)

東京お散歩2 - お城旅行記


この吉良邸から徒歩数分のところにこんな公園があります。


勝海舟生誕の地です!

勝海舟といえば知らない人がいないくらい有名な幕末の幕臣です。彼が生まれた場所、両国だったんですね。






公園内には彼の事績を伝える碑文やパネルが多数展示されてます。

幕末や海舟が好きな人は是非訪れてください!!