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祇園城・鷲城 その他諸々

帰省しました。

お盆休みを転職活動に費やしてしまったため帰省してなかったからです(ちなみに転職についてはいずれ書こうと思います。ひとまず内定まではゲッチュしました。)

さて、私の地元は栃木県小山市というところでして、東京まで80キロ、栃木県第二の都市として北関東の中ではソコソコの規模の街です。ちなみに街の鉄道の中心地、小山駅東北新幹線も停車します。

どこぞの統計データみたいに過大評価していないか、心許ない調査ですがスポーツ選手も多数輩出しています。

さて、そんな小山市ですがこの街にもお城があります。主なものが祇園城、鷲城の2つ、共に国の史跡に指定されています。


駅の西側を流れる川、「思川」に沿って城が位置しています。


今回は地元紹介も兼ねてこの2つの城を紹介しようと思います。

ちなみに陽が落ちてからの散策で全体的に写真が暗いです


まず旅行に行ったら観光案内所へ行きましょう。小山市ではこの思季彩館が観光案内や物産販売を行っています。ここで自転車を借りました。

城に行く前にここで小山の歴史をざっくりと…

小山の名前の由来は諸説あるそうですが、川から見たときにこの土地が小さい山に見えたから、というものやアイヌ語起源説などあります。
平安末期、この土地から1つの武家が生まれます。それが小山氏です。街を流れる思川を利用し物流を円滑にし、北関東の要衝地を抑えていました。

この小山氏は平将門を討伐した藤原秀郷の子孫と称し、平安末期には小山政光という武将がこの土地を治めていました。この小山政光の後妻に寒川尼という方がいます。京都で生まれた彼女は源氏の跡取りと目されていたあの源頼朝の乳母を務めた後小山政光に嫁ぎました。

この時世間は平家の全盛期。平治の乱で敗れた頼朝は伊豆に島流し、小山政光は平氏に従い力をつけていました。

そこに舞い込んだ知らせが頼朝挙兵の報。北関東でも有数の武家だった小山氏にも協力するよう頼朝から要請が来ます。この時小山には政光の息子、小山朝政、宗政、朝光の三兄弟がおり、対応を協議します。

頼朝が挙兵したと言ってもまだまだ平家は強大、会議は紛糾しますが頼朝の乳母を務めた寒川尼の主導で頼朝に味方することで一致します。その後小山氏は頼朝に従って対平家、木曽義仲、そして奥州藤原討伐戦で軍功を重ね所領を増やし御家人の中でも高い地位を築いていきます。のちに宗政は長沼宗政、朝光は結城朝光と名乗り小山氏はますます栄えることとなります。

頼朝死後、鎌倉幕府は北条氏が政を行いますが北条氏は和田氏や畠山氏と言った累代の御家人を倒していきます。こうした流れの中でも小山氏は上手く世を渡っていきました。

鎌倉幕府が滅ぶ時も足利氏に味方することで家を保つことに成功、南朝勢力と戦うことでさらに力をつけ、北関東最大の武家へと成長します。

転機となったのは政光から数えて7代目の小山義政の時。
室町幕府も3代目義満の治世となっており関東に出先機関として鎌倉府が置かれていました。この時の鎌倉府の長官が足利氏満
という人で鎌倉府の力を高めようと躍起になっていました。一説には将軍職を狙っていたとも言われています。

この足利氏満に義政は目をつけられてしまいます。何しろ北関東最大の武家であり鎌倉府にも抵抗しうる力を持っていると言われていたからです。

そんな時小山義政は領地争いから隣国の宇都宮氏の領土に侵攻、宇都宮氏当主を討ち取ってしまいます。この行いが氏満に義政討伐の口実を与えてしまいました。この時1380年、小山義政の乱が始まりました。

この時の戦いの舞台となったのが鷲城、祇園城です。

当初小山氏は善戦しますが大軍で攻め込んだ鎌倉府軍には勝てず降伏します。許されますが再度鎌倉府に反抗、再討伐を受け義政は今の鹿沼で自害します。

義政の息子、若犬丸は助命されたものの何と祇園城で挙兵、再び鎌倉府と小山氏は戦うことになります。最終的に若犬丸は逃亡を重ねて会津で自害、幼い息子は捕らえられ処刑されます。
これを以て小山氏の嫡流は滅亡、結城氏から養子を迎えて名跡だけは相続されました。

時は流れて戦国時代、すっかり小大名になった小山氏は上杉謙信北条氏康と言ったメジャー武将に翻弄されながらも何とか命脈を保っていましたが豊臣秀吉による小田原討伐で北条方に付いたために祇園城から追放され、名実ともに滅亡することとなりました。

まさに栄枯盛衰といった感じですね。

長くなってしまいましたがこれが小山氏の歴史です

まず先に行くのは鷲城です。現在は一部が総合運動公園になっています

小山駅から国道50号線を通り越すとこんな看板があります

すぐ近くに石碑があります。いまは神社となっています。


先が真っ暗で千と千尋感がありますがズンズン進んで行きます
辺りに人もおらずかなりひっそりとした道です
神社も特に案内板等ありません。かつて戦があったという雰囲気もありません。
しかしここから下に降りると…



土塁や虎口がきちんと残されていました。
かなり保存状態も良いです。しかしもう日暮れ、かなり雰囲気が怖いです。絶対落ち武者の霊が出てる。

ちなみにこの道を下りきると


総合運動公園となっています。この小山に育った子供は遊びに来た人も多いと思います。

今度は祇園城に向かいます
この祇園城こそ小山氏の本城です
小山駅から歩いて10分くらい、小高い丘のようになった場所が城跡。現在は城山公園となっています。
鷲城と異なりちゃんと案内板があります
そして眼下には思川が流れています。中世小山の発展に大きく寄与しました。
縦に曲輪が作られ、曲輪と曲輪の間に空堀が掘られています
日も暮れて来てなかなか不気味な雰囲気になってきました。これ絶対出るやつだ…

空堀跡と二の丸跡です。もうすっかり真っ暗。闇。夜の城跡は怖い
この二の丸には昔大銀杏と井戸があったそうで、祇園城落城の時に女たちが身を投げたそうな。いや絶対出るやつだこれ
怖すぎて歩きながら写真撮ったためにブレブレ
掘りも真っ暗で撮れない…でもかなり深い掘りです。

いやー、何でこんな時間にお城来たんだ…
怖かったー

祇園城は掘りと曲輪がきちんと形として残っているためかなり見応えがあります。
ちなみにこのお隣にある天翁院には小山氏累代の墓があります
暗すぎて墓の位置もわからず捜索は断念しました。いや夜のお墓はダメでしょ精神に良くない。

さて、ここから駅に戻りますが、途中に市役所があります
市役所の隣には小山御殿の跡があります。
これは城ではなく江戸時代に入ってから将軍が日光に向かう際に宿舎とした場所です

かなり広い敷地だったみたいです。

そして市役所にもとある史跡が。それがこちら暗くて遠目で分かりにくいですがここは小山評定が行われた場所だそうです。

1600年、徳川家康会津上杉景勝を討つために出陣したところ、西では石田三成が挙兵、石田を討つか上杉を討つかでこの地で軍議が開かれたそうです。福島正則が三成討つべしと言うと諸将がそれに賛同、会議の結果石田三成を討つことが決まりました。これが本やドラマで描かれる小山評定です。
ただこの会議、現在はあったかどうか定かでないそうです。この石碑の命もどうなるか。

そういえば本日9月15日は関ヶ原合戦が起きた日ですね。平成最後の関ヶ原です。


それにしても垂れ幕の多い市役所です。

さて、地元の主な史跡を巡ることができました。
いつか巡ろうと思っていたのですが夜に巡るとなかなか雰囲気が怖かったです。
ただ故郷の歴史を学ぶ良い機会になったので今度は幕末の史跡がないか探してみようと思います。

皆さんも今住んでる場所や生まれ故郷の歴史散策してみてください!


おまけ

さすが田舎。
ペンギンハイウェイの公開が遅い。
岡崎の公開が終わったらこっちに見に行こうと思います。

ペンギンハイウェイ観ると一生懸命勉強してお姉さんに会いに行こうと思えるので是非こちらもみてください。