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米原駅周辺(旅行後編)

はい、後編です。

舞台を京都から米原駅に移します。

米原駅って皆さん知ってます?東海道新幹線も止まる駅ですが、いかんせん名古屋と京都に挟まれてあまり知名度がありません。それどころかなんで止まるんだろうってくらいには何もない印象が強い。

いっそ岐阜羽島駅共々東海道新幹線から消えても誰も気にしないのではないかと思うくらいには印象が薄いです。(岐阜羽島駅知名度相当低いと思う)

ということで今回は米原駅の周辺を散策します。ちなみにこの駅にある立ち食いうどん屋はうまい。

本当はレンタサイクル借りたかったのですが生憎全部借りられていたのでバスと徒歩で頑張ります。
駅の東口には風土記を模した木彫り絵がかけられています。
さらに外にはかつて湊があったことを示す案内板があります。

まずは東口を見て行きましょう。
とりあえず空が青い。という感想しかないくらいには何もない。この道を歩いていき途中山の方に進んで行きます。
山道に沿って進むとこんな看板が。
この道は江戸時代に作られたこと、米原の発展に寄与した道ということがわかります。ちなみにこの道の横にある山、実は城跡。太尾山城というお城がありました。
ただ山なのでとりあえず今は放置。

山道を抜けると田園地帯へ。
西日が差しなんかこう、胸がキュンと締め付けられるような感覚を感じながら進んでいきます。この時点で駅から2キロ以上歩いています。
チャリが欲しい。
そんなこんなで歩いて行くとお目当ての看板が出てきました。番場宿です。


道脇に当時どんな建物があったかを石碑が建っていますが目的地はここ。

蓮華寺です。
聖徳太子によって開かれた寺と言われています。
ここは鎌倉時代末期、足利尊氏に攻められた六波羅探題であった北条仲時という人が、皇族を連れて鎌倉に逃げる途中、進退窮まって主従430人以上と自害した場所です。



鐘楼や本堂です。この裏手にある山に、主従の供養塔が立っています。


五輪の塔が所狭しと並べられています。かなり静寂な雰囲気でした。

ちなみに北条仲時のお墓はさらに奥の山である六波羅山に移されており、五輪の塔が建てられています。流石にそこまで行く体力はありませんでした。

さて、いい時間にバスがあったので駅までピューっと帰りました。

駅西口から少し歩くと田園風景。新幹線が止まる駅とはとても思えない。。。

この田園をとぼとぼ歩くと一つの祠があります。これがどんな祠かというと…
大谷吉継首塚です。
大谷吉継といえば、ハンセン病を患っていながら関ヶ原の戦いに西軍として従軍、小早川秀秋と交戦して討ち死にしました。
実はこの時首が発見されず、一説として従軍していた僧の祐玄が首この地まで運び、埋めたという伝承が残っています。
それを示す塚となっています。

さて、最後に駅の東口にある2つの寺社に行きます。2つとも東口から歩いてすぐです。
参道をテクテク歩いて行きます。

湯谷神社と太尾山城です。太尾山城は山城で山の尾根に沿って築かれています。織田信長浅井長政の戦いの舞台となりました。
流石に登る時間も体力もなかったので案内板だけ…(この時点で足はもうボロボロでした。蓮華寺まで歩いたのが良くなかった。というか京都も歩きっぱなしだった)

もう1つが青岸寺です。開基は婆娑羅大名として知られる佐々木道誉です。一方で風雅の道も心得た人だったらしく、この寺も枯山水庭園が国の名勝となっています。

庭内にはキリシタン灯篭と呼ばれるものがあります。織部灯篭とも呼ばれており、一般的な灯篭とは形が異なるようです(どこがどう違うのかよくわからなかった…)

庭の全景。あーなるほどという感想しか出てこないくらいにはこの風流を解する心を持ち合わせていませんでした。ごめんなさい。

という感じで米原駅を散策しました。
駅前には平和堂というデパートもどきと山内農場と東横インがありましたがほかにはなんもなかったです。

ですが城や神社などそれなりに史跡もあるため、京都に行く予定がある人はぜひお立ち寄りください。


おまけ

駅前にある広場のベンチ、なんと非常時にはかまどになるようです。駅前キャンプはれそう。

京都聖地巡礼とノリノリな坊さんと転職お礼参り(旅行前編)

どうも
三連休中日、湧き上がる欲求を抑えることが出来ずついに来てしまいました。


はい、京都です。もう何回来たのか数えるのやめました。いっそ住みたい。

とりあえず巡ろうと思ってる史跡の最寄駅に行くために地下鉄へ。

途中こんなポスターが。

お坊さんノリノリ過ぎでしょ。お坊さんに会いにいこうとか会いに行けるアイドルと同じノリで騒いでいます。

しかもPR動画ではお坊さんが熱演してるとか、完全に従来のお坊さんの概念をデストロイしにきています。

さて、そんな知恩院、ライトアップ紅葉は如何程かというと、実に綺麗です。
お坊さんが騒ぐのもわかるくらいにほんと綺麗です。僕も去年(一人で)来ましたがライトアップされた紅葉は見る価値ありと断言できます。

是非ともこのブログを読んでる人は大切な人と見に行ってもらいたいものです。

さて、地下鉄で向かうは竹田駅

この駅から北に向かって歩いて行きます。
上に高速道路が通っているためそれに沿って歩いて行くと…
ありました。白河天皇御陵です。
白河天皇といえば「院政」で有名ですね。
周りを車がビュンビュン通る中大変厳粛な雰囲気を放っています。
この陵を横目に交差点を右に曲がってまっすぐ行くとこんな神社があります。
城南宮という神社です。
創建年は不明ですが、京都御所の裏鬼門を守る神となったことから貴族の方違の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されるようになりました。

この神社、明治維新ではもう一つ役割を持ちます。というのもこの神社が鳥羽伏見の戦いにおける官軍の本陣になります。

鳥羽伏見の戦いといえば、幕末に旧幕府軍と新政府軍が初めて戦った戦争です。
今やってる大河ドラマ西郷どん」でも先日放映されていました。

今回はこの鳥羽伏見の戦い聖地巡礼を行おうと思います。

なおこの戦争、戦線がかなり広いため徒歩と電車でカバーできる範囲で紹介していきます。
参道にはいくつか神社がありますがこの参道にはかつて大砲がズラリと並びここから幕府軍を砲撃したそうです。

ちゃんと鳥羽伏見の戦いの案内板もありました。錦の御旗についても解説されていました。


本殿と舞台です。
とりあえず転職先がホワイトであることを祈りました。南無南無

この城南宮の近くには鳥羽離宮跡があります。
もともとこの鳥羽は貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名で古くから鳥羽には貴族達の別邸が建ち並び市が立つなど、都市として発達していたそうです。

そんな鳥羽で作られた離宮後も戦場となりました。


離宮後にはこのように戦いを示す案内板が置かれています。



今の鳥羽離宮はただの原っぱになっていますがこれでもほんの一部、かなり大きな邸宅だったようです。
さて、戦争に関する案内板を読むと、この近くにある小枝橋で戦端が開かれたそうです。
その小枝橋は今コンクリの橋になっていますが橋の入り口にはきちんと戦跡を示す石碑が建っています。
そしてこれが現代の小枝橋。

川を隔てて両軍がにらみ合っていたようです。

この辺り一帯は鳥羽伏見の戦いにおける"鳥羽方面"の戦いでした。本当は淀とかの方まで戦線は伸びていたのですが時間的な都合で断念。

そこで"伏見方面"の戦いを見に行くことにしました。
竹田駅から近鉄ですぐに行けます。桃山御陵前で降ります。ここは伏見の中心地のためかかなり賑わっています。

さて、伏見の戦跡を見る前にちょっと寄り道します。
桃山御陵前駅のすぐ近くにある商店街を抜け左に曲がると一気に町の様相が変わります。
「龍馬通り」と名付けられたこの通り、雰囲気的に江戸の香りがするのですがなにやら坂本龍馬と関係があるようです。
通りにあった店のシャッター絵。酒は飲んでも飲まれるな。うん、たしかに。

と、こんな絵を見つつズンズン進んで行くと龍馬との関係を示す史跡が出て来ました。

ジャジャン!!寺田屋です。
寺田屋といえば寺田屋騒動が有名です。薩摩藩の過激派がこの旅館に溜まっていたのを同じ薩摩藩の鎮圧勢が襲撃、過激派を一掃する事件です。
さらにその後、この旅館に泊まっていた坂本龍馬奉行所の人間が襲撃、のちの奥さん、お龍さんの決死の報告でなんとか難を逃れます。

ただこの寺田屋、雰囲気的に当時のまま立っているように見えますが実際は鳥羽伏見の戦いで焼けています。なので館内にある刀痕などは後から観光用に付けられたものです。

それでも入館券が土佐藩の藩札を模しているなどなかなか粋な計らいがされています。
入館料は400円です。

ちなみにこの伏見、月桂冠など酒蔵もそれなりに多く、お酒の試飲も楽しめるようです。

では、本来の目的地に戻りましょう。
駅の方に戻るとなにやら赤い鳥居が目を引きます。

これは御香宮神社の鳥居です
門も立派な構えですが、これは近くにある伏見城の門を移築したものなんだとか。お祭りの真っ最中らしく人で賑わっていました。

そんな御香宮神社、鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の本営となりました。この方面では主に新撰組会津藩と戦ったそうです。
境内にはそれを示す石碑も立っていました。

この御香宮神社を山の方に向かって歩いて行くと伏見桃山城があります。


台風の影響で落石の心配があるらしく中には入れませんでした。残念(簡単に行けるような書きぶりですが、山登りなので軽く20分以上登って行くことになります。入れないテープを見たときはショックで大泣きしそうになりました。)

この桃山、天守閣がありますが模擬天守です。
関ヶ原の戦いの前哨戦では、この城を石田三成が攻めて、城主であり徳川家臣である鳥居元忠を討ち取りました。

この城の近くには明治天皇陵、桓武天皇陵があります。
桃山御陵前駅の近くにある料亭では、窓の格子に当時の弾痕が残っています。

ということで今回の鳥羽伏見の戦い聖地巡礼はここまで。他にも色々あるのですがまた次回にとっておきます。

ここでちょっと前から行きたかった場所に行こうと思います。
桃山御陵前駅の近くにある京阪から八幡市駅を目指し、そこからケーブルカーに乗ります。

たどり着いたのはここ
エジソンが日本の竹を電球のフィラメントに用いたことを示す記念碑と、
石清水八幡宮です!

石清水八幡宮は勝負の神様と言われ、さらに源氏一門の氏神として尊敬されてきました。
ここで、転職先でうまくやって行けるよう祈念しました。南無南無。
それにしても赤い社殿が青空に映えて良い雰囲気でした。

さて、転職にあたって、かなり念入りにお参りしていた神社が京都にはあります。
それがこちら。



安井金比羅宮です。
今回はそのお礼参りをします。

電車だと祇園四条駅で降りるのが1番行きやすいと思います。

この神社、何がすごいって悪縁切りが物凄いんです。テレビでも取り上げられるくらいかなりのご利益があります。

かつて私もこんな札を奉納しました。

支社から出てホワイト部署どころか会社ごと変わりましたからね!!
ここの御利益ほんとすごいですよ。また転職するときはお参りしますよ。

こんなにすごいこんぴらさん。いったい誰が祀られてるのかと言えば、崇徳院になります。

崇徳院は1156年、保元の乱で敗れて讃岐の国に配流され、そこで怨霊になったと言われています。
日本の御霊信仰では、位が高い人ほどヤバイ怨霊になると言われており、皇族かつ上皇である崇徳院は日本史上最強の怨霊と言えます。貞子や伽倻子なんて目じゃありません。

そんな崇徳院が祀られているだけあって、その御利益に預かろうと沢山の参拝者が訪れます。

とりあえず転職の成功のお礼と次の場所での多幸を祈りました。

実はこれで京都編は終わり
次は東海道新幹線でも地味な駅を散策します。(後編に続く)

長篠城とコミュ力

どうも

土日が台風の影響でぐっちゃぐちゃになる昨今ですが皆様いかがお過ごしでしょうか?

僕はといえば先日証券アナリスト試験の一次試験があったのですが見事に台風が直撃、帰宅困難になるのを防ぐべく半年繰り延べることにしました(ほんとは準備をあまりしておらず台風がいい具合に来てくれたと思ったのは内緒)

さて、今回は愛知県新城市にあるこの城を紹介します。

長篠城です!

長篠城よりも長篠の戦いの方が城知名度がある気がします。
1575年、織田信長徳川家康連合軍と武田勝頼がこの城を巡って戦いました。いわゆる鉄砲3000丁、三段撃ちで織田信長が武田をフルボッコにしたと言われています。

実際のところは鉄砲は1000丁くらい、しかも堀や柵を作りまくって野戦築城を行い、武田勢が撤退するところを追撃して大勝したのが最近の定説だそうです。

さて、この長篠城ですが、JR飯田線 長篠城駅から歩いて行くことが出来ます。車窓からも長篠城を見ることもできます。


駅から降りるとさかさ桑という勝頼に関する伝承を知ることが出来ます。
長篠城は駅から歩いて20〜30分くらいです。
城址なので、堀がきちんと残っています。
この長篠城は行ってもらうと分かるのですが川に沿って築城され、さらに切り立った崖のようになっているのでかなり防御に適した城と言えます。実際勝頼も落とすことが出来ませんでした。
長篠城には資料館もあります。
日本100名城にも指定されており、スタンプはこの資料館で押すことができます。

本丸後です。普通の広場みたいになっていますが結構広い感じです。
城址自体は宅地化が進み、いくつかの郭も地下に埋まってしまっていますがこのように案内はきちんとあります。

長篠城については、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という人の逸話が有名です。

武田勝頼長篠城を包囲した際、城内では主人の家康に援軍を頼もうということになり使者の選定が行われていました。

しかし城は厳重に包囲されており無事抜け出せるかの保証もありません。そんな中で下っ端足軽の強右衛門が使者に立候補し、家康の元に向かいます。

なんとか包囲を切り抜けることができ、家康の元に着くとそこには同盟者の信長も大軍を引き連れて待機していました。信長、家康に長篠城の窮状を訴えた強右衛門は、危ないから自分たちと一緒にいるようにという家康の制止を振り切り、援軍が来るということを城に伝えようとすぐに戻ります。

しかし行きのように上手くいかず武田に捕縛されます。

事情を聞いた武田は、包囲を一回はくぐり抜けた勇気を称して、「城方に援軍は来ない、城を明渡せと伝えろ。そうすれば高禄で雇ってやる」と誘います。強右衛門は了承し、翌朝城の前面に引き立てられました。

城方も見守る中、強右衛門は大声で「後数日で援軍が来る!それまで持ちこたえろ!」と呼びかけます。それを聞いた武田はその場で強右衛門を磔にしますがその知らせに城兵は息を吹き返しなんとか城を守り抜きます。

この功績から長篠城主、奥平貞昌は家康の長女を娶り、さらに信長から一字をもらい信昌と名を改めます。子孫も大名として明治維新まで続きます。強右衛門の子孫も徳川一族の家臣として今も続いています。

なお、この強右衛門の行動は敵方の武田勢にも感動を与え、武田家家臣、落合左平次という人はこの強右衛門が磔にかけられている絵を旗指物したと言われています(この指物の複製が今も伝わっている)

そしてさらに、JR飯田線の駅「鳥居駅」はこの強右衛門の最期の地となったことから命名されました。駅名までになった鳥居さん、強い。

…話が長くなってしまいました。

この長篠周辺では討ち死にした武田家臣の墓も多くあります。

そのうちの1つがこちら

馬場信房という人のお墓。この馬場さんは武田家の中でも重臣で武田四名臣の一人に数えられています。(他の三人は山県昌景、内藤昌秀、高坂昌信

勝頼が撤退する際にしんがりとして最後まで戦場に踏みとどまって奮戦、討ち死にします。

その姿は信長にも賞賛され、信長公記という書物でも激賞されています。

それでは長篠合戦の主戦場に行ってみましょう。

最寄駅は「三河東郷駅」となります。

この駅から歩くこと30分、看板が出てきます。

主戦場といっても450年も前の話のため今は田んぼに家が何軒か建っている、といった感じです。
ただいたるところに武田家の家臣の墓や供養塔が建っています。激戦だったことが伝わります。

武田側から見た、織田側の陣地です。山と山に挟まれた土地で大軍を動かすにはかなり手狭な印象を受けます。

復元された馬防作です。高さが結構ありました。

そしてまた一つ武将のお墓が。

この墓は先程出てきた武田四名臣の一人、山県昌景とその家臣たちのお墓です。

この山県昌景、兎唇だった、小柄で醜男だった、など容姿については散々な言われようですが元祖赤備えの一人です。この昌景の兄である飯富虎昌という人から始まった武田の赤備えはこの昌景に引き継がれ、武田滅亡後は彼の家臣団が徳川家臣、井伊直政に引き継がれ井伊の赤備えとなっていきます。

さらに同じ武田家臣だった真田昌幸の次男、真田幸村も赤備えを率いて大坂の陣を戦います。

このように赤備えは勇猛の証として尊敬されていました。

それにしても飯田線、意外と史跡たくさん持ってるな…

おまけ
岡崎にある城址、百々城に行ってきました。
読み方はどうどじょうです。

七所神社のすぐ近くにある住宅地に突如現れる森林。もう怪しさ満点、お城の匂いがプンプンします。

しかしこの城、なんと個人宅の敷地内。さて、どう入るか…

…ピンポーン!!

はい、潔く「お城見せてください!」と頭下げました。お城見るために個人宅に訪問するのは初めてです。いや緊張した。。。

ただ、かなりいい人が対応してくださり、無事見ることが出来ました。

この城の城主は青山さん。
青山さん?誰?という方がほとんどだと思いますが徳川家康の家臣として青山忠門という人が各地の合戦で活躍、さらにその子青山忠成が関東奉行として江戸のまちづくりに活躍します。

ところで都民の皆様、青山通りはじめとする青山という地名、由来はこの人青山忠成です。
彼の屋敷の一部が今の青山に当たります。ちなみにこの屋敷、かなり広大な敷地を持っていたそうです

土塁も見ることができました。住宅地にポツンとある城址、これもなかなか趣がありました。

岡崎史跡巡り②(岩津城、岩津天満宮、信光明寺、井田野古戦場、西光寺、若宮八幡宮、八柱神社その他諸々)

どうも

退職に伴い年末に岡崎を後にするため、岡崎に居られるのも以外と日数が少ないことに気づいちゃいました…

そこで悔いの残らないよう岡崎の史跡巡りをドンドン行っていこうと思います。3連休という精神的にゆとりがある土、日曜に色々見てきました。

①細川城趾

岡崎から北へ北へ、豊田市の方まで行く途中にひっそりと住宅地にあります。
承久の乱後、足利義季と言う人がこの地に住み、細川を名乗りました。この細川氏から戦国時代は細川幽斎、忠興親子、そして政治家の細川護熙さんが輩出されます。
今は石碑が建つのみで、土塁らしきものが少し確認できる程度です。

②岩津城・岩津八幡宮

岡崎というと岡崎城が思い浮かびますが以前紹介した能見城のように昔はあったお城が数多くあります。

そのうちの1つが岩津城という山城です。
岩津城の築城年は明らかになっていませんが松平氏三代目の松平信光が手に入れ岩津松平氏の本拠地となりました。(ちなみに家康は九代目)この信光はのちに安城方面に進出、岩津城は大切な支城の1つとなりました



城の西側に登城口があります。

遺構がきれいに保存されているため土塁や空堀を確認できます。

そして本丸には石碑があります。

この城は伊勢新九郎(のちの北条早雲)や武田信玄にも攻められたことがあるとか

この城の守護神として勧進されたのが岩津天満宮と言われています。
城から高速道路を横切る橋を渡ると鳥居があります。

長い階段

そして本殿です。

岩津天満宮から坂を下りると信光明寺があります


③信光明寺


門がありますがなんと保育園を横切る形になっています。しかし保育園は閉じていたのでぐるっと回り込んで寺へ。
観音堂重要文化財として登録されています。
室町時代の創建とのこと。
この寺も北条早雲の兵火に遭い観音堂を残して全焼、江戸時代にも火災があり規模も小さくなってしまったとのことです。
この寺は先程出てきた松平信光が建立し、初代親氏、2代目泰親の菩提を弔いました。奥まったところに初代から信光までのお墓があります。

さて、ここで岡崎と北条早雲の関係について少し話します。

北条早雲といえば下克上の申し子、素浪人から小田原城を奪い北条家繁栄の礎を築いた人として知られていますが、実際は素浪人ではなく室町幕府の官僚であり妹は駿河国主、今川氏に嫁いでいるという抜群の毛並みの良さを誇る人だったそうです。

そのため早雲も今川家に仕えており、今川が三河を攻略しようとした際に彼が将として攻めたわけです。なおこの時は松平側の決死の抵抗で退けられましたが各所に放火していったそうです。

この信光明寺から足助街道に出て南に行くと、あの方の誕生地があります。


それがこちら

本多忠勝誕生地です。

本多忠勝誕生地
本多忠勝といえば徳川家屈指の猛将でゲーム等でもメインキャラとなるくらいに著名です。
また生涯50回以上合戦に出ながら一度も手傷を負わなかったと言われています。

実はここもお城跡。
西蔵前城というお城があったそうです。

今では住宅地となっており遺構は伺えませんが、すぐ近くに大きな川が流れているため、川の利便性を活用しつつ堀としても機能させていた城なのではと思います。

さてここからさらに南に行くと大樹寺があります。

大樹寺

大樹寺は徳川家の菩提寺として江戸時代にも将軍家に篤く信仰されたお寺です。

立派な門ですが徳川家光の建立で指定文化財となっています。
大樹寺の白壁も残っていますがもう一つ面白いものが。
なんとこの寺から岡崎城を見ることが出来ます。(写真だとかなり見にくいですが…)
これをビスタラインと言っており、徳川家光が意図的に配置したそうです。それくらい岡崎城大樹寺は徳川家のシンボルでもあったのです。ちなみにこのライン城には高層建築物は建てられません。


門から本堂は一本道。そして本堂では拝観料400円を支払うことで収蔵蔵、そして歴代江戸幕府将軍の位牌を見ることができます。しかもその位牌の高さが将軍の身長と同じなのです。ちなみに家康の位牌の高さは159センチらしいです。

そして境内から脇に逸れた墓地では歴代松平氏のお墓があります。



さらに家康の祖父、松平清康が建立した多宝塔があります。大樹寺内で最も古い建造物とのこと。

さて、この大樹寺、一つの話が伝わっています。

1560年、桶狭間の戦い今川義元織田信長に討ち取られた時、徳川家康は今川方として戦っていました。しかし総大将討ち死にという事で彼も命からがら岡崎に戻ることになります。

しかしこの時岡崎は今川の武将が居座っておりひとまず大樹寺に入りました。それに目をつけたのが野武士や追撃してきた織田方。家康の首を差し出すよう寺側に要求しますがこの寺のお坊さんは拒むとともに追い払うために戦いを挑みました。

門の閂を持って戦った僧もおり、激戦の末になんとか退かせることに成功、しかし多数の僧が討ち死にしたというものです。これを大樹寺の陣と言います。

なおこの時家康は自害しようとしましたが和尚さんから「厭離穢土欣求浄土」の思想を教わり、生涯の思想として旗印にもしました。

そもそもこの寺、一体誰がどのような目的で建てたのでしょうか?
この答えを示す寺に次は向かいます。

⑥井田野古戦場・西光寺

大樹寺からさらに南に進んだところに西光寺という寺があります。

この寺がある土地を井田野と言いますが、こちらの写真をご覧ください
かなり高台になっており平野を一望出来ます。
岡崎を治める側からすればここを取られたら自分たちの動きが丸わかり、敵からすればなんとしても欲しい土地なわけです。

松平氏が勢力を拡大して行く過程で、周辺土豪との軋轢も深まっていき、三代目信光の頃から戦が頻発するようになります。特にこの井田野では何度も戦が起こりその度に多くの死者が出ました。

応仁元年(1467)の井田野合戦に勝った松平親忠松平信光の息子で松平四代目)は、戦死者のために念仏堂(今の西光寺)を建て、敵味方区別無く埋葬して塚を築いて弔い、後に千人塚と呼ばれるようになったのです。
こちらが千人塚です。

そしてこの松平親忠こそ、大樹寺を創建した方です。

井田野合戦後、周辺地域では夜な夜な馬の嗎や刀の音などが聞こえるなどの怪奇現象が起きました。
さらには疫病も流行します。

これは戦死者の祟りだと考えた親忠は聖総というお坊さんを招き、一つのお寺を建立します。


これが大樹寺なのです。

元々は戦死者供養のために建てられた寺なのです。

ちなみにこの聖総、関東にある光明寺という寺を増上寺と改め関東における浄土宗の道場としました。

この増上寺、徳川将軍のお墓が多数あるお寺であり風水における、江戸城の裏鬼門の抑えとしていまは東京都港区芝の地にあります。ちなみに鬼門の抑えは上野寛永寺が担っています。

かなり話が逸れましたが、この西光寺にはもう一つ、塚があります。

それがこちら

これは大衆塚といいます。上にいますは阿弥陀如来像。
先程大樹寺の陣の話をしました。家康を守るために多くの僧が死んだと。

その僧の霊を慰めるために築かれました。

西光寺と大樹寺、共に松平氏が発展する上で流れた血にまつわる歴史を持つお寺でした。

そしてこの井田野のすぐ近くにはお城があります。

⑦井田城
井田城は松平氏重臣、酒井家のお城で、ここで徳川四天王の一人、酒井忠次は生まれました。

今は公園となっており、住みの方に稲荷様がいらっしゃいます。
由緒書もありますが、周りが住宅地のため遺構はありません。ただ周囲よりも高台になっているので城を作るにはいい地点だと思います。

さて、またまた南に行きます。
次に行った場所はこちら

若宮八幡宮


国道1号線を東に行き、少し道から逸れるとひっそりとした八幡宮があります。

じつはここ、徳川家康長男、信康の首塚があります。

家康の息子というと秀忠が有名です。だって二代将軍ですし。

しかし秀忠が成長する前に信康は命を落とします。昨年の大河ドラマ「おんな城主直虎」でも描かれていた信康事件です。

事の経緯は家康と築山御前(瀬名姫)の婚姻から始まります。
今川氏の人質であった家康は今川一族の姫を奥さんに迎えます。それが瀬名姫です。今川義元の姪に当たる人と言われています。

桶狭間合戦後、家康は今川から独立、逆に今川攻めを行います。夫が実家と戦う、瀬名姫の苦労が偲ばれます。
家康はのちに居城を浜松へと移しますが瀬名姫はついていかず、岡崎にとどまります。その後築山御前と呼ばれるようになりました。

この築山御前との間に生まれたのが信康です。
そして信康は織田信長の娘、徳姫を正室に迎えます。

問題なのは徳姫と信康の関係があまりよろしくなかったこと。徳姫は信康の素行について信長に告げ口、信長もただの夫婦喧嘩だろうと甘くみてたらなんと信康が当時敵対していた武田勝頼に内通しているとの噂が。さらに母である築山御前も加担しているとか。

驚いた信長は家康に真相究明を命じ、弁解のため家康家臣、酒井忠次が信長の元に派遣されます。
しかし弁解すべき忠次は徳姫からの告げ口をほぼ認めてしまいます。その後信長は築山御前と信康の処断を要求、築山御前は殺され信康は切腹させられます。

首は信長に見せられた後家康に返却され、ここ若宮八幡宮に葬られました。

さて、この信康事件は謎なことが多く、近年では徳姫との不仲や内通疑惑ではなく家康との不仲が原因ではないかとの見方も出ています。

当時信康は岡崎城主であり、家臣も岡崎中心の人たちでしたが、家康は浜松におり手柄をあげる者も浜松にいる人が多く、家臣団の間に派閥がけいせいされていた。そのため岡崎派に祭り上げられた信康と家康の間に深刻な対立が生じていたという説です。

このように信康、築山御前の死にはいろんな説が出されるほどわからないことが多いのです。

しかし腐っても親子、そして夫婦。家康の悲しさがひしひしと伝わってきます。

こちらが首塚です。岡崎信康の旗がたくさん立てられ、柵に囲まれていました。

この若宮八幡宮から今度は北に行き、岡崎女子大学の近くにある八柱神社に向かいます。

八柱神社
少し山を登ったところに鎮座しています。
ここにはこちらがあります。

信康事件のもう一人の犠牲者、築山御前の首塚です。かなりひっそりとした場所にあります。
謀反に加担した者として葬ることができなかったのでしょうか…

ちなみに静岡県浜松市には築山御前のお墓があり、殺害するのに使われた刀を洗った場所の石碑があるとのことです。いつか行ってみたいです。
神社も小さめでひっそりと地域を見守っている感じです。

さて今度は西に進路を取り、安城方面に行きます。

西岡崎駅の近くにあるこちらの寺へ向かいました。
妙源寺
文暦2年(1235年)、親鸞が関東より帰郷する途中、当地に立ち寄ったことが始まりとされています。

三河一向一揆の際、徳川家康は本寺に身を寄せ難を逃れ、これにより家康から「源」の一字を与えられ、妙源寺と改称したそうです。

立派な門と柳堂の石碑があります。

この柳堂は市の重要文化財に指定されています。




また境内にある墓地には、本多忠豊(本多忠勝の祖父)、長坂血槍九郎(すごい名前だが槍の名手であったために付けられた)、平岩親吉と言った家康の家臣たちの墓がありました。

この妙源寺から安城方面へ剣道78号線を進みますと1つの城跡があります

11 安祥城

この安祥城は三度も合戦があった場所になります。

本丸跡には大乗寺があります。
岩津を取った松平信光がのちに本拠をここに移しました。その後松平清康(家康のおじいちゃん)は本拠を岡崎に移しますが、彼が殺された後、尾張織田信秀織田信長のパパ)が三河攻略の前線基地として占領します。以後松平氏織田氏の間で争奪戦が繰り広げられました。



城の一部は公園、神社となっており市民の憩いの場となっています。


そしてここには本多忠高という武士の討死碑もあります。安祥城の戦いで本丸近くまで攻め込んだ忠高ですがここで敵の矢にあたり討死したそうです。ちなみにこの忠高は本多忠勝の父親になります。


ちなみにこの石碑から北へ500メートルくらい行った住宅地には先程出てきた本多忠豊の討死碑もあります。主君の身代わりになって討死したのだそうです。
普通に住宅地のため見落としそうでした。


これを見ていると本多一族は常に松平氏に忠誠を誓って戦い抜いた一族なんだなということが伝わります。


さあさあ、ここから北へ200メートルくらいさらに行くともう一つお城があります。
それがこちら
12山崎城趾



こちらも城跡のためすでに遺構はありません。
松平清康の息子、松平信孝という人がこの地に城を築き三河地方を制圧しようとしたそうです。
その後保科正直という人がこの地を治め、すぐ近くの正法寺に屋敷を構えたため廃城となったそうです。


すぐ近くにあったため正法寺、行ってきました。少し荒れている感じでしたが案内板もありました。

ところでこの保科正直という人は、私の大好きな城、長野県高遠城の城主でもありました。

さて、いよいよ史跡巡りも大詰めです。
岡崎に戻る途中、矢作川沿いにある諏訪神社にはこんな石碑がありました。

13諏訪神社、渡古戦場



渡古戦場という石碑が立っています。ここでは松平広忠松平信孝が戦を行った古戦場です。清康死後、松平一族は分裂し三河は内乱状態となりました。ここ渡でもその戦いが行われました。

この諏訪神社から北へ行くと今度はとある一族の発祥地があります
14鳥居一族発祥地

鳥居一族です。
鳥居氏は代々松平氏に仕え、鳥居忠吉という人はいつか家康が岡崎を治めることを見据え密かに年貢や金銭を蓄えていた忠臣として知られています。
その息子、鳥居元忠も家康に忠誠を尽くし、関ヶ原の合戦では伏見城を守って討死しました。
それらの功績から鳥居氏は譜代として存続していくこととなります。


とりあえずこれで今回の史跡巡りはおわりです。
いやー2日がかりだった…しかもグーグル先生がいなかったら周りきれなかったな…

ちなみに岡崎に観光で来る人でこれらの史跡を巡りたい人はおとなしく車か自転車を借りましょう!



岡崎は家康が生まれた街、天下統一の覇業が始まった場所、このように世間の人には認知されています。観光としても家康生誕の地という面を前面に押し出しています。

しかし岡崎はそれだけではありません。

家康が天下を取るために必要だった「基盤」を整えるために、何代にもわたって戦いを繰り広げ、血がたくさん流れました。その度に人々は平和を願い数多くの寺院が建てられ、岡崎の街並みに溶け込んできました。

そしてその寺、神社には数多くの人の無念や働きが今も息づいています。

岡崎は家康が生まれた街、だけではないのです。
松平一族と岡崎に住む人たちが連綿とこの土地を守るために戦い抜いた苦難の歴史を持つ、大変大きな意味を持つ街なのです。

以前私の地元紹介記事を書きましたが、地方には地方の歴史があります。日本史の教科書に載るような大きな出来事ではないにしても、その場所で何か戦いがあって、巻き込まれた人の血が流れて、それを慰霊して…その繰り返しで街には塚なり神社仏閣が建てられ、今に伝わっています。おそらくこれは日本中どこの街にも見られることだと思います。

仰々しい建物や豪華絢爛な建物だけが史跡、観光地ではありません。

みなさんの住む街にも先人の願いや想いが息づく場所がないか、探してみてください。


おまけ

榊原康政本多忠勝酒井忠次(井田城)生誕の地制覇しました
残りは井伊直政

転職と退職の話

何回かブログでちらほら言ってましたがこの度転職活動し、年末を以って退職、新年とともに新しい会社に行くことになりました。

よく聞かれる転職の理由ですが、1番大きな理由は専門職として、専門性を持って働きたいと思ったからです。(だったら何で専門職で応募しなかった!就職活動で何も考えなかったのか!とお叱りが飛んできそうですが全くその通りで弁解のしようもありません。)

そもそもの入り口ですが、私は生命保険会社に総合職として就職、初期配属で地方の支社に配属されました。営業にはなりたくないという理由で銀行ではなく保険を選んだところがあります。

大学、大学院と計量経済学統計学を専攻していたこともあり資産運用やインステック(保険×ITの造語)に携わりたいと面接では言い続けていましたがそれは叶いませんでした。たしかにこれらを行う部署は本社にしかないので配属される確率は限りなく低い。

ただ入社5年以内に支社と本社両方を経験するという方針が弊社にはありその時は深く考えず、次は本社だなーという軽い気持ちでいました。

支社配属で就いた部署は企画担当。主に営業職員(生保のお姉さんと言われる方たち)の成績管理と行事運営です。
成績管理とともに、ある一定の成績を挙げた職員への粗品支給等も行いました。いわゆる事務職です。

支社では他に営業職員を育成するために研修を行ったり新たに職員を採用するためにイベントを企画する部署、お客様対応をする部署、営業職員に同行して経営者保険を取ってくる部署があります。私の支社は大体50人くらいの規模でした

この仕事のうち行事運営が圧倒的に苦手でした。
表彰式や優秀な成績を挙げた職員を旅行に連れて行く行事わパーティーなど、どのような事態が想定されるのか、旅行であればどのような導線で職員を誘導するのか、パーティーであれば席はどのように決めて途中の余興やゲームはどう進行し誰が何を行うのか…こういったことを突き詰めて考えて行くのが圧倒的に下手くそでした。

ただこれらの行事も何回かやっていけば慣れていく、実際に2年目には少しコツが掴めるようになりました。

ただ、総合職である以上、一度本社に行ってもその後また支社に出ることも大いにある、もしかしたらそのあとは営業職にされるかもしれない(実際周りの役付きには営業経験者がゴロゴロいた)
また支社に行って同じような仕事をする、もしくはお客様対応や支社での営業担当になる可能性もある。それは嫌だなという気持ちが確かにありました。

また、支社で3年過ごしたあと、本社配属になってもリーテイルやホールセールの営業、アンダーライティングと言われる保険金支払いの部署だったらどうしようという思いもありました。総合職である以上どこの部署に配属されるかは運要素が強いのです。(もちろん希望を言う機会はあるがそれが叶うかはもちろんわからない。)
そして総合職である以上、転勤を伴うローテーションは3年置きくらいでやってくる、そうなったら運用やデータ分析の部署に行けても専門性はつかないのではとも思いました。
今の会社ではゼネラリストに離れるけれどスペシャリストにはなれない、と思いました。

実際、私の面接を担当してくれた方で、運用部門にいた方が異動で支社に出されアセットマネジメントの会社に転職したと言う事例もありました。


まぁ要するに今の会社における負の未来しか見えなくなっていたのです。


そして私も来年には27歳、転職するなら30前半くらいまでと言う世間の言説に影響されて、動くなら今だなと考えました。そして自分の専門性を見つけ、伸ばして行くにも動く必要があることも感じていました。

こういった事情が重なり在職1年3ヶ月という短さで転職活動を開始しました。

やり方としてはいたって簡単でいくつかの転職サイトに登録、そこで運用やデータアナリスト職の求人を探すだけでした。

ただ運用の仕事は業務経験を問われるところが多く早々に断念、運良く今回内定をくれた会社を見つけデータアナリスト職として採用してもらえることとなりました。

ただ今度行く会社はグループ全体で今の会社と提携しており、実際今の会社にデータアナリストとして出向することもあるということは言われました。私も今の会社が嫌いというわけではなかったので、退職してからもほっそい糸で今の会社とつながっていくことになりそうです。


とまあ、転職の経緯はこんな感じです。エゴ丸出しの転職理由なので人によってはなんて身勝手な考えだと感じるでしょうし、共感する人もいるかもしれないです。

ただ私自身まだ次の会社で働いているわけではないので、何が正解なのかわからないというのが現状です。
しかし自分で選んだ以上は望み通り専門性を身につけられるよう頑張っていきたいなと思っています。
そして残された残りの期間で少しでも今の部署の人に恩返しができる働きができるようになりたいなと思います。この会社、支社で学ばせていただいたこと、嬉しかったこともたくさんあるので。
特に成績優秀者旅行のガイドでは観光案内を全力でやらせていただいて(主に歴史関連)多くの人に満足(?)いただけて楽しかったです。


退職を決めて承認が降りてから、少しずつ周りの人に退職を話していますが「課がピリピリしてても君はニコニコ話してくれるから話しやすかったのに寂しい」とありがたい言葉をかけてもらうことがありました。

仕事をして行く上で、事務的な処理の速さや技術、スキルの有無以前に、愛嬌ってのも仕事を円滑に進める上で大切なんだなと感じたので次の職場でも愛嬌は大切にしたいと思います。

今後就活をする学生さんにへっぽこ社会人からアドバイス出来ることとすれば、自分が何をしたいのか、"就社"ではなく"就職"を考えましょう、ということ。
そして嫌な仕事でも何かしら学べることはあるということです。

おわり


そいえば転職活動で行った東京で新ゴジラ像を拝みました。前よりかっこよくなってる気がする

祇園城・鷲城 その他諸々

帰省しました。

お盆休みを転職活動に費やしてしまったため帰省してなかったからです(ちなみに転職についてはいずれ書こうと思います。ひとまず内定まではゲッチュしました。)

さて、私の地元は栃木県小山市というところでして、東京まで80キロ、栃木県第二の都市として北関東の中ではソコソコの規模の街です。ちなみに街の鉄道の中心地、小山駅東北新幹線も停車します。

どこぞの統計データみたいに過大評価していないか、心許ない調査ですがスポーツ選手も多数輩出しています。

さて、そんな小山市ですがこの街にもお城があります。主なものが祇園城、鷲城の2つ、共に国の史跡に指定されています。


駅の西側を流れる川、「思川」に沿って城が位置しています。


今回は地元紹介も兼ねてこの2つの城を紹介しようと思います。

ちなみに陽が落ちてからの散策で全体的に写真が暗いです


まず旅行に行ったら観光案内所へ行きましょう。小山市ではこの思季彩館が観光案内や物産販売を行っています。ここで自転車を借りました。

城に行く前にここで小山の歴史をざっくりと…

小山の名前の由来は諸説あるそうですが、川から見たときにこの土地が小さい山に見えたから、というものやアイヌ語起源説などあります。
平安末期、この土地から1つの武家が生まれます。それが小山氏です。街を流れる思川を利用し物流を円滑にし、北関東の要衝地を抑えていました。

この小山氏は平将門を討伐した藤原秀郷の子孫と称し、平安末期には小山政光という武将がこの土地を治めていました。この小山政光の後妻に寒川尼という方がいます。京都で生まれた彼女は源氏の跡取りと目されていたあの源頼朝の乳母を務めた後小山政光に嫁ぎました。

この時世間は平家の全盛期。平治の乱で敗れた頼朝は伊豆に島流し、小山政光は平氏に従い力をつけていました。

そこに舞い込んだ知らせが頼朝挙兵の報。北関東でも有数の武家だった小山氏にも協力するよう頼朝から要請が来ます。この時小山には政光の息子、小山朝政、宗政、朝光の三兄弟がおり、対応を協議します。

頼朝が挙兵したと言ってもまだまだ平家は強大、会議は紛糾しますが頼朝の乳母を務めた寒川尼の主導で頼朝に味方することで一致します。その後小山氏は頼朝に従って対平家、木曽義仲、そして奥州藤原討伐戦で軍功を重ね所領を増やし御家人の中でも高い地位を築いていきます。のちに宗政は長沼宗政、朝光は結城朝光と名乗り小山氏はますます栄えることとなります。

頼朝死後、鎌倉幕府は北条氏が政を行いますが北条氏は和田氏や畠山氏と言った累代の御家人を倒していきます。こうした流れの中でも小山氏は上手く世を渡っていきました。

鎌倉幕府が滅ぶ時も足利氏に味方することで家を保つことに成功、南朝勢力と戦うことでさらに力をつけ、北関東最大の武家へと成長します。

転機となったのは政光から数えて7代目の小山義政の時。
室町幕府も3代目義満の治世となっており関東に出先機関として鎌倉府が置かれていました。この時の鎌倉府の長官が足利氏満
という人で鎌倉府の力を高めようと躍起になっていました。一説には将軍職を狙っていたとも言われています。

この足利氏満に義政は目をつけられてしまいます。何しろ北関東最大の武家であり鎌倉府にも抵抗しうる力を持っていると言われていたからです。

そんな時小山義政は領地争いから隣国の宇都宮氏の領土に侵攻、宇都宮氏当主を討ち取ってしまいます。この行いが氏満に義政討伐の口実を与えてしまいました。この時1380年、小山義政の乱が始まりました。

この時の戦いの舞台となったのが鷲城、祇園城です。

当初小山氏は善戦しますが大軍で攻め込んだ鎌倉府軍には勝てず降伏します。許されますが再度鎌倉府に反抗、再討伐を受け義政は今の鹿沼で自害します。

義政の息子、若犬丸は助命されたものの何と祇園城で挙兵、再び鎌倉府と小山氏は戦うことになります。最終的に若犬丸は逃亡を重ねて会津で自害、幼い息子は捕らえられ処刑されます。
これを以て小山氏の嫡流は滅亡、結城氏から養子を迎えて名跡だけは相続されました。

時は流れて戦国時代、すっかり小大名になった小山氏は上杉謙信北条氏康と言ったメジャー武将に翻弄されながらも何とか命脈を保っていましたが豊臣秀吉による小田原討伐で北条方に付いたために祇園城から追放され、名実ともに滅亡することとなりました。

まさに栄枯盛衰といった感じですね。

長くなってしまいましたがこれが小山氏の歴史です

まず先に行くのは鷲城です。現在は一部が総合運動公園になっています

小山駅から国道50号線を通り越すとこんな看板があります

すぐ近くに石碑があります。いまは神社となっています。


先が真っ暗で千と千尋感がありますがズンズン進んで行きます
辺りに人もおらずかなりひっそりとした道です
神社も特に案内板等ありません。かつて戦があったという雰囲気もありません。
しかしここから下に降りると…



土塁や虎口がきちんと残されていました。
かなり保存状態も良いです。しかしもう日暮れ、かなり雰囲気が怖いです。絶対落ち武者の霊が出てる。

ちなみにこの道を下りきると


総合運動公園となっています。この小山に育った子供は遊びに来た人も多いと思います。

今度は祇園城に向かいます
この祇園城こそ小山氏の本城です
小山駅から歩いて10分くらい、小高い丘のようになった場所が城跡。現在は城山公園となっています。
鷲城と異なりちゃんと案内板があります
そして眼下には思川が流れています。中世小山の発展に大きく寄与しました。
縦に曲輪が作られ、曲輪と曲輪の間に空堀が掘られています
日も暮れて来てなかなか不気味な雰囲気になってきました。これ絶対出るやつだ…

空堀跡と二の丸跡です。もうすっかり真っ暗。闇。夜の城跡は怖い
この二の丸には昔大銀杏と井戸があったそうで、祇園城落城の時に女たちが身を投げたそうな。いや絶対出るやつだこれ
怖すぎて歩きながら写真撮ったためにブレブレ
掘りも真っ暗で撮れない…でもかなり深い掘りです。

いやー、何でこんな時間にお城来たんだ…
怖かったー

祇園城は掘りと曲輪がきちんと形として残っているためかなり見応えがあります。
ちなみにこのお隣にある天翁院には小山氏累代の墓があります
暗すぎて墓の位置もわからず捜索は断念しました。いや夜のお墓はダメでしょ精神に良くない。

さて、ここから駅に戻りますが、途中に市役所があります
市役所の隣には小山御殿の跡があります。
これは城ではなく江戸時代に入ってから将軍が日光に向かう際に宿舎とした場所です

かなり広い敷地だったみたいです。

そして市役所にもとある史跡が。それがこちら暗くて遠目で分かりにくいですがここは小山評定が行われた場所だそうです。

1600年、徳川家康会津上杉景勝を討つために出陣したところ、西では石田三成が挙兵、石田を討つか上杉を討つかでこの地で軍議が開かれたそうです。福島正則が三成討つべしと言うと諸将がそれに賛同、会議の結果石田三成を討つことが決まりました。これが本やドラマで描かれる小山評定です。
ただこの会議、現在はあったかどうか定かでないそうです。この石碑の命もどうなるか。

そういえば本日9月15日は関ヶ原合戦が起きた日ですね。平成最後の関ヶ原です。


それにしても垂れ幕の多い市役所です。

さて、地元の主な史跡を巡ることができました。
いつか巡ろうと思っていたのですが夜に巡るとなかなか雰囲気が怖かったです。
ただ故郷の歴史を学ぶ良い機会になったので今度は幕末の史跡がないか探してみようと思います。

皆さんも今住んでる場所や生まれ故郷の歴史散策してみてください!


おまけ

さすが田舎。
ペンギンハイウェイの公開が遅い。
岡崎の公開が終わったらこっちに見に行こうと思います。

ペンギンハイウェイ観ると一生懸命勉強してお姉さんに会いに行こうと思えるので是非こちらもみてください。

岡崎史跡(上宮寺、大久保氏発祥地、小豆坂古戦場)

ラーメン食べにいきました

まるぎん2号店で、汁なしそばです。大大盛りで1030円、旨しです。

さて、帰り道をいつもと変えようと思い、途中いくつか史跡を巡ってきました。

まずは1つ目、上宮寺


本堂が近代的すぎて史跡感が皆無ですが、実はこの寺、徳川家康と大きな関わりがあります。

なんとこの寺、三河一向一揆の引き金になったお寺なのです。

一揆のきっかけは、家康の家来菅沼定顕が上宮寺から糧米を強制的に徴収しようとしたためでした。
上宮寺は当時、本願寺教団における三河三ヵ寺と呼ばれ家康に対抗しました。

一揆は鎮圧され、上宮寺も荒廃しましたが、鎮圧から20年後、妙春尼という方の口添えで赦免され、無事に復興しました。
境内にはこの方のお墓もあります


1988年に本堂や庫裏などが全焼しましたが、1996年に銅版屋根の現代作りで再建されました。

住所
〒444-0936 愛知県岡崎市上佐々木町梅ノ木34
あまり交通機関もなさそうな感じでした…

ここからチャリを漕ぎ漕ぎ町の中心部に向かいます。

2つ目がこちら、大久保氏発祥地

大久保氏は松平家の譜代家臣で、特に大久保忠世、忠佐兄弟は家康幼少期の頃から仕えて大きな武功を立ててきました。

幕府開府後は本多家との政争に負け没落しましたが、その後赦免され小田原藩主などを務めました。

この場所にはかつて上和田城という城があったようですが、周辺にはもう遺構が残っていません。

JR東海道本線 岡崎駅から北西に行き、県道48号線方に面した「上和田公民館」の敷地内に 大きな石碑が建っています。

そしてここからさらにチャリを漕ぎ漕ぎ、県道48号線をどんどん西に進みいくつか坂を登って降りてを行うと古戦場にたどり着きます。

それがこちら
小豆坂古戦場です

1542年と1548年の2回にわたって織田氏と今川・松平連合の戦いの場となりました。

ここ以外でも織田と今川の戦いは続き、1560年の桶狭間の戦いまで続きました。




血洗池跡や槍立松など戦を思わせるものが残り、周辺には記念碑や慰霊碑も残り、戦さの激しさを物語ってます。

愛知県岡崎市戸崎町

こうしてみると岡崎はまだまだ沢山の史跡がありそうです。これからも定期的に岡崎の史跡を知らせていければと思います