お城旅行記

お城旅行記と銘打ってるけど色々話したい

長篠城とコミュ力

どうも

土日が台風の影響でぐっちゃぐちゃになる昨今ですが皆様いかがお過ごしでしょうか?

僕はといえば先日証券アナリスト試験の一次試験があったのですが見事に台風が直撃、帰宅困難になるのを防ぐべく半年繰り延べることにしました(ほんとは準備をあまりしておらず台風がいい具合に来てくれたと思ったのは内緒)

さて、今回は愛知県新城市にあるこの城を紹介します。

長篠城です!

長篠城よりも長篠の戦いの方が城知名度がある気がします。
1575年、織田信長徳川家康連合軍と武田勝頼がこの城を巡って戦いました。いわゆる鉄砲3000丁、三段撃ちで織田信長が武田をフルボッコにしたと言われています。

実際のところは鉄砲は1000丁くらい、しかも堀や柵を作りまくって野戦築城を行い、武田勢が撤退するところを追撃して大勝したのが最近の定説だそうです。

さて、この長篠城ですが、JR飯田線 長篠城駅から歩いて行くことが出来ます。車窓からも長篠城を見ることもできます。


駅から降りるとさかさ桑という勝頼に関する伝承を知ることが出来ます。
長篠城は駅から歩いて20〜30分くらいです。
城址なので、堀がきちんと残っています。
この長篠城は行ってもらうと分かるのですが川に沿って築城され、さらに切り立った崖のようになっているのでかなり防御に適した城と言えます。実際勝頼も落とすことが出来ませんでした。
長篠城には資料館もあります。
日本100名城にも指定されており、スタンプはこの資料館で押すことができます。

本丸後です。普通の広場みたいになっていますが結構広い感じです。
城址自体は宅地化が進み、いくつかの郭も地下に埋まってしまっていますがこのように案内はきちんとあります。

長篠城については、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という人の逸話が有名です。

武田勝頼長篠城を包囲した際、城内では主人の家康に援軍を頼もうということになり使者の選定が行われていました。

しかし城は厳重に包囲されており無事抜け出せるかの保証もありません。そんな中で下っ端足軽の強右衛門が使者に立候補し、家康の元に向かいます。

なんとか包囲を切り抜けることができ、家康の元に着くとそこには同盟者の信長も大軍を引き連れて待機していました。信長、家康に長篠城の窮状を訴えた強右衛門は、危ないから自分たちと一緒にいるようにという家康の制止を振り切り、援軍が来るということを城に伝えようとすぐに戻ります。

しかし行きのように上手くいかず武田に捕縛されます。

事情を聞いた武田は、包囲を一回はくぐり抜けた勇気を称して、「城方に援軍は来ない、城を明渡せと伝えろ。そうすれば高禄で雇ってやる」と誘います。強右衛門は了承し、翌朝城の前面に引き立てられました。

城方も見守る中、強右衛門は大声で「後数日で援軍が来る!それまで持ちこたえろ!」と呼びかけます。それを聞いた武田はその場で強右衛門を磔にしますがその知らせに城兵は息を吹き返しなんとか城を守り抜きます。

この功績から長篠城主、奥平貞昌は家康の長女を娶り、さらに信長から一字をもらい信昌と名を改めます。子孫も大名として明治維新まで続きます。強右衛門の子孫も徳川一族の家臣として今も続いています。

なお、この強右衛門の行動は敵方の武田勢にも感動を与え、武田家家臣、落合左平次という人はこの強右衛門が磔にかけられている絵を旗指物したと言われています(この指物の複製が今も伝わっている)

そしてさらに、JR飯田線の駅「鳥居駅」はこの強右衛門の最期の地となったことから命名されました。駅名までになった鳥居さん、強い。

…話が長くなってしまいました。

この長篠周辺では討ち死にした武田家臣の墓も多くあります。

そのうちの1つがこちら

馬場信房という人のお墓。この馬場さんは武田家の中でも重臣で武田四名臣の一人に数えられています。(他の三人は山県昌景、内藤昌秀、高坂昌信

勝頼が撤退する際にしんがりとして最後まで戦場に踏みとどまって奮戦、討ち死にします。

その姿は信長にも賞賛され、信長公記という書物でも激賞されています。

それでは長篠合戦の主戦場に行ってみましょう。

最寄駅は「三河東郷駅」となります。

この駅から歩くこと30分、看板が出てきます。

主戦場といっても450年も前の話のため今は田んぼに家が何軒か建っている、といった感じです。
ただいたるところに武田家の家臣の墓や供養塔が建っています。激戦だったことが伝わります。

武田側から見た、織田側の陣地です。山と山に挟まれた土地で大軍を動かすにはかなり手狭な印象を受けます。

復元された馬防作です。高さが結構ありました。

そしてまた一つ武将のお墓が。

この墓は先程出てきた武田四名臣の一人、山県昌景とその家臣たちのお墓です。

この山県昌景、兎唇だった、小柄で醜男だった、など容姿については散々な言われようですが元祖赤備えの一人です。この昌景の兄である飯富虎昌という人から始まった武田の赤備えはこの昌景に引き継がれ、武田滅亡後は彼の家臣団が徳川家臣、井伊直政に引き継がれ井伊の赤備えとなっていきます。

さらに同じ武田家臣だった真田昌幸の次男、真田幸村も赤備えを率いて大坂の陣を戦います。

このように赤備えは勇猛の証として尊敬されていました。

それにしても飯田線、意外と史跡たくさん持ってるな…

おまけ
岡崎にある城址、百々城に行ってきました。
読み方はどうどじょうです。

七所神社のすぐ近くにある住宅地に突如現れる森林。もう怪しさ満点、お城の匂いがプンプンします。

しかしこの城、なんと個人宅の敷地内。さて、どう入るか…

…ピンポーン!!

はい、潔く「お城見せてください!」と頭下げました。お城見るために個人宅に訪問するのは初めてです。いや緊張した。。。

ただ、かなりいい人が対応してくださり、無事見ることが出来ました。

この城の城主は青山さん。
青山さん?誰?という方がほとんどだと思いますが徳川家康の家臣として青山忠門という人が各地の合戦で活躍、さらにその子青山忠成が関東奉行として江戸のまちづくりに活躍します。

ところで都民の皆様、青山通りはじめとする青山という地名、由来はこの人青山忠成です。
彼の屋敷の一部が今の青山に当たります。ちなみにこの屋敷、かなり広大な敷地を持っていたそうです

土塁も見ることができました。住宅地にポツンとある城址、これもなかなか趣がありました。