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春日山城と御館

どうも

怒涛のゴールデンウィーク10連休、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

おそらく平成最後の城巡りになる今回、新潟県にあります上杉謙信の居城、春日山城に行ってまいりました。

実は人生初の新潟行きということで結構ワクワクしております。


まずは上越新幹線越後湯沢駅へ。冬場になるとスキー客で賑わうらしいですがGWでも観光客で賑わっておりました。

ここから私鉄で直江津駅、そして春日山駅に移動します。


こじんまりとした駅で、上杉謙信を大々的に推してるわけでもない、いたって普通の駅でした。こういうところ、好感が持てます。

駅前にあった交流館も落ち着いた雰囲気で良かったです。(市民から寄贈された本コーナーがあったのですがなぜか謙信関係の本がほとんどなかった…)

この駅から春日山城の麓までは大体歩いて30分、こういう地方都市にありがちな循環バスも、地方都市にありがちな時刻表の過疎り具合のせいで利用できなかったためテクテク徒歩で向かいます。

駅から少し歩くと謙信公通りという大通りに出ます。
基本的にはこの道をひたすら歩いていく感じになります

途中石垣好きを虜にするような石垣が!!

まさか石垣が街中に!?

某進学塾ばりの疑問と興奮を持ちつつ勇んで駆け寄ってみると…




トイレでした。くそッ


まぁお城までそれなりの距離がありますし、行く前にお腹下して三方ヶ原で敗戦した徳川家康よろしくお漏らししたまま登城する危険を少しでも排除すべくここでしっかり出すものは出しておきましょう。


大通りをどんどん進んで行くと目の前に大きな山が見えてきます。これがお城がある春日山

ザ・山城って感じがここからビンビン伝わってきます。

山に向かって歩いて行くと…


ついに到着、春日山城入り口です。

この春日山城上杉謙信のお父さんである長尾為景という人が城主としてこの城に入り、謙信、上杉景勝と代を重ねてきますが、豊臣秀吉によって上杉景勝会津に国替えされたあとは堀秀治という人が春日山城主として入城します。

しかし春日山城では平時の統治に不向きであり、当時港町として栄えていた直江津に近い場所に福島城を築城、そこに移ってしまったため春日山城は廃城となりました。

今では堀跡や曲輪の跡が残っているという次第です。

さて、山であるからにはここから登山が始まります。


案内板によるとこの道が春日山城への正式な道であるみたいです。この道をズンズン進んでいきます。


覚悟はしてましたが山です。山道です。

途中こういった番所の跡や家臣の屋敷跡がありますが、それを横目に登っていきます。


途中ピクミンがいそうな木がありました。


当時のお侍さんは重い鎧を着てこの山道を上り下りしたわけです。
戦から帰って本丸まで行くにはこの道を登らなきゃいけない。はっきりいって苦行。福利厚生のふの字もない。

辞令交付で山城勤務を言い渡された家臣はさぞ悲しみの涙を流したことでしょう。

こんなくだらないことを考えながら歩いていくとそれなりの高さになってきます。

山頂に近づくにつれて家臣の屋敷跡の敷地も大きくなっていきます。家臣の序列に従って大きくなっていくのでしょうか。

ちなみに柿崎和泉守という方、上杉謙信も一目置くほどの猛将で数多くの合戦で先陣を勤めては相手方に恐れられていた武将になります。
信長の野望では戦闘能力に能力値が全振りされて戦闘マシーンとしてしか使えない武将になっていますが、近年の研究では政治や外交でも活躍していたことが明らかになっておりかなりのハイスペ武将であったのではと思います。

重臣の柿崎和泉守、そして一門衆の上杉景勝の屋敷跡を超えると今度は井戸曲輪と呼ばれる場所に出ます。



今でも井戸の中には水がたまっています。
夜になると貞子とか出てきそうな感じの井戸ですが、ここが城内の水の手、生命線になります。

この井戸曲輪を登って行くと…



本丸跡、山頂です!!!
山頂からは上越市内、そして直江津を眼下におさめることができます。謙信も同じ眺めを見ていたのでしょうか。

前の方にある山にも城があり、春日山城の支城として機能していたようです。

この本丸から尾根伝いに降りていくと、


出陣前に謙信が篭って戦勝祈願したと言われる護摩堂の跡、そして進行していた毘沙門堂があります。



帯曲輪や空堀といった城らしい防御施設も観察できます。

この春日山城の中腹には春日山神社という神社があります。

御祭神は上杉謙信


多くの方が参拝しておりました。

調子に乗っておみくじを引いたところ

なんと大吉!!
令和も良い年になりますようにとお願いしてきました。

この神社の横手に上杉謙信の像が凛々しく建っています

この春日山城の麓、歩いて15分くらいのところに謙信やその一族が弔われているお寺、林泉寺があります。



1497年に長尾能景(謙信の祖父)という武将が開き、上杉謙信が幼少の頃修行したお寺になります。立派な山門に掲げられている「第一義」という額は謙信直筆になります(本物は宝物館に保管)

墓地に行くと長尾能景、長尾為景上杉謙信川中島合戦の戦死者供養塔、堀秀治の墓があります。




謙信の父である長尾為景という人、実は自分の主人である上杉房能という人を殺して自分が越後の支配者となろうとした、いわゆる下克上の化身のような人です。彼も生涯戦に明け暮れましたが、結局他の武将の支持を得られず隠居、長男の長尾晴景家督を譲ります。

しかしこの晴景、父為景とはうってかわって戦を好まず芸能面に才能を発揮してしまいまたまた武将たちの支持を得られなくなってしまいます。

そこで目をつけられたのが当時修行中の身であった長尾景虎、後の上杉謙信です。

謙信は為景の四男という立場でしたが、兄たちが次々と早死してしまったせいで後継として推されます。

その後晴景方と景虎方とで何度か争いが起きた結果景虎が勝利、無事大名として歩み出すことになるのです。

こういった少しドロドロした歴史が春日山城に残っています。

さて、舞台を春日山から港町である直江津に移しましょう。

この直江津には、先程ちらっと出てきた福島城という城跡があります。
そしてもう一つ、上杉家の歴史を語る上で外せないもう一つの史跡があります。

それがこちら

御館です(おたて、と読みます)

現在は完全に公園となっていますが、戦国時代にこの御館と春日山城を舞台に血みどろの上杉家の内紛が起こりました。

それが御館の乱

1578年、上杉謙信が急病で死去すると、上杉家には2人の後継候補が残されました。

1人は上杉景勝。もう1人は小田原北条氏から人質として送られ、のちに謙信の養子となった上杉景虎です。2人とも謙信の実施ではなかったのですが、景勝は謙信の姉の子、つまり甥っ子、景虎は謙信の姪を妻として迎えていました。

謙信死後の後始末で家中が混乱する中、上杉景勝と一部家家臣との関係が悪化、景勝に後継になってもらいたくない一派が上杉景虎を担ぎ上げたことで後継者争いが起きました。この辺りは当時の上杉家中の対立関係や派閥が大きく関わっています。

乱の当初は景勝が春日山城を占拠し軍資金も手に入れたため優位に立ったと思われましたが、景虎はこの御館に避難、さらにこの館の主人で上杉謙信に上杉という性を与えて養子にした上杉憲政を味方につけます。さらにさらに実家の小田原北条氏に援軍を送ってもらい、北条と同盟関係にあった武田勝頼にも援軍を送ってもらいます。

外からの勢力を味方につけることで景虎が一気に優位に立ったのです。

一方景勝方は譜代の家臣や国内の領主を味方につけていきましたが外に味方を持てませんでした。

そのため長年の敵であった武田勝頼と和睦するという道を選びます。

実はこの時、北条家は関東の他の敵と戦っていたため全力でこの内乱に介入出来ず、武田のみが痛い思いをしながら戦うという状況になっていました。そのため勝頼は北条家への不信感を募らせこの和睦案を了承します。
これに激怒した北条家はやっと援軍を越後に送り勝頼に考え直すよう迫りましたが、季節が冬だったこともあり北条家の侵攻も雪に阻まれて止まってしまいます。

こうして外圧を見事に排除した景勝は景虎方への総攻撃を開始、この御館を中心に激しい戦いが起こります。
過去にこの御館あとで発掘作業が行われた際は焼けた鉄砲の弾や簪と言った生活や戦の遺物が出土したようです。

御館を支えきれなくなった景虎は小田原へ逃げようとしますが、途中家臣の裏切りに遭い自害、館の主人上杉憲政も、景虎の息子を伴って助命嘆願をするために春日山城へ向かう途中景勝方の兵に襲われ2人とも殺害されてしまいます。

こうして御館の乱終結し、景勝の反対派が一掃されたわけですがこの内乱の傷跡は大きく、直後に織田信長の侵攻に直面、苦しい戦いを本能寺の変まで続けることになります。



案内板には、当時の御館はもっと広い敷地があったこと、そして御館の乱の説明が書かれています。

この御館と春日山城、距離が7キロほどしか離れておらず、この御館から春日山を見ることもできます。それくらい目と鼻の先で繰り広げられた戦いでした。

ということで一度行ってみたかった春日山城と御館にようやっと行くことができました。
新潟にはまだ謙信や景勝ゆかりのお城や史跡がまだまだあるのでどんどん訪れてみたいです

おわり