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景徳院

どうも

最近すっかりお城とか史跡に行けてません。
飽きたとかではなく、どこに行こっかな〜って悩んでたらいつのまにか時間が経ってるみたいな感じなんです。あぁだんだん若者の書く文章ではなくなってる気がする…



これでも一応城郭検定受けたりとかお城の本読んだりとかしてるんですが、肝心の外に出れてない。


という事で、何か史跡の記事でも書けば、外に出た気になるんじゃないかと思ったのでつらつらこれまで書いてなかった史跡について書こうと思います。


今回ご紹介するのは景徳院です。

残念ながらお城ではないのですが僕がこれまで行った史跡の中でもトップクラスで印象深い場所です。

景徳院、どこにあるのかと言うと山梨県甲州市にあります

山梨と言うともうあの一族しか思い浮かばないのですが、このお方が深く深く関わっています。
この方です

信玄だと思った方、ブッブー!!
正解は信玄の四男、武田勝頼です。

この景徳院、勝頼はじめ、武田家の人々が自害した武田滅亡の地なんです。

1582年、今の長野県の木曽地方に勢力を持ち、信玄の娘を奥さんにしていた木曾義昌という武将が織田信長に寝返り、織田徳川連合軍による甲州征伐が始まります。

武田家側も長年織田家と敵対していたため備え自体はしていたのですがいざ侵攻が始まると怒涛の勢いで味方が逃亡を開始、さらに浅間山が噴火という当時不吉と呼ばれていた事件が立て続けに起こりわずか1ヶ月弱で信濃の領国が崩壊すると言う事態に見舞われます。唯一抵抗したのが、高遠城主で勝頼の弟、仁科盛信だけという有様でした。

この事態に際し、勝頼は新たな本拠地として築城していた新府城も捨てることにし、家臣の真田昌幸の居城である岩櫃城小山田信茂の居城、岩殿城に落ちる決断を迫られます。

最終的に信玄以前から代々武田家と同盟関係にあった小山田信茂を頼ることを決意し岩殿城に向けて逃亡を図ります。

ところがこの小山田信茂、土壇場で勝頼を裏切り城に入れることを拒みます。おそらく勝頼を保護して織田家の逆鱗に触れることを恐れたのではないでしょうか。

頼みの綱がプツンと切れた勝頼一行は、当時木賊山(とくさやま)にあった天目山棲雲寺を目指します。

このお寺はかつて武田家の祖先である、武田信満という方が上杉禅秀の乱に加担して敗死したお寺なのです。一度武田家が滅亡した地に向かおうとする勝頼の心中察して余りあるものがあります。

ちなみにこの時、小幡昌盛という武将が病により付いていくことが難しいと勝頼に別れを告げますが、彼のかかっていた病が地方病である日本住血吸虫症だったと言われています。(Wikipedia文学として有名)


この逃避行により配下の武士も多くが逃亡し武士が40人ほど、さらに数多くの女性も付いてきているという状況になっていました。

さらに寺にたどり着く前に織田家の武将、滝川一益に捕捉されてしまいます。そこで勝頼はこの景徳院一帯で最後の戦いを行います。


JR中央線甲斐大和駅が景徳院への最寄駅になります。
駅前には武田勝頼の像が建っています。
一応バスが出ているのですが時刻表が過疎の極みなので歩いて行った方が無難です。だいたい40分くらいです。


30分ほど歩くと2つの古戦場碑があります。
この四郎作、鳥井畑に簡単な柵を作り武田勢は織田軍を迎え撃ちます。
40人ほどで3000人を相手にするという無茶苦茶な戦いにもかかわらずしばらく持ちこたえます。
この戦いに際して、かつて不手際により勝頼の怒りをかって蟄居させられていた小宮山友晴という武将が駆けつけ、最後のお供を願い出て勝頼に許されたという話があります。

さらに山の方では土屋惣蔵という武士が崖を利用して敵の侵入を阻み、「惣蔵の片手千人斬り」という逸話を残しています(景徳院からさらに数キロ歩くと石碑があるそうです)



こちらが景徳院の入り口になります。

境内には甲将殿という勝頼の位牌を納めている建物と勝頼の嫡男、武田信勝の生害石が残っています。

家臣たちも必死の奮闘を見せますが最後には全員討ち死に、信勝も討ち死にします。



境内に勝頼の生害石、北条夫人の生害石もあります。

北条夫人ですが、当時まだ18歳。政略結婚により勝頼に嫁ぎ、上杉の家督争い、御館の乱で武田家と北条家が断交した後も武田家の人間として過ごします。
木曾義昌織田家に寝返った時は武田を守って欲しいと願文を書いて武田八幡宮に奉納しています


甲将殿の裏手には勝頼、信勝、北条夫人の墓があります。近年瓦等が出土しており江戸期から供養が行われていたことなどが分かっています。
勝頼の最後には諸説あり、自身も華々しく戦った後北条夫人の自害を見届けて自分も自害した説、逃避行による疲れで何も抵抗できず首を取られたという説があります。



こちらが景徳院の山門になります。
県指定の有形文化財となっています


本堂です。

本堂の手前にあるこの松ですが、勝頼は最後にあたり武田家重来の家宝である盾無しの鎧をこの松の麓に埋めて敵の手に渡らないようにしました。

しかしそれを掘り起こした人がいます。
徳川家康です。

徳川家康といえば武田家に三方ヶ原の戦いでコテンパンにされ、何度も滅亡させられそうになったのですが、この景徳院を建立し、勝頼の供養を行なったのも家康なのです。

何度も辛い目に遭わされながらも彼は武田家の強さや人材の優秀さに目をつけていました。
武田家滅亡後、織田信長は苛烈な残党狩りを行なったのに比較して家康は武田の武士を多く匿ました。その大部分が徳川四天王の一人、井伊直政につけられ赤備え隊として他の大名に恐れられる軍となります。


武田勝頼というと武田家を滅亡させた武将というレッテルが貼られ、長篠の戦いの大敗も合わせて評価されてきませんでした。

しかし近年再評価が進み、長篠の戦い以後の家中再建や領国経営などの手腕が評価され始めています。

何より敵方の織田信長が勝頼のことを「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給いて、かくならせ給う物かなと御仰けり」(三河物語)と、運がなかったが立派な弓取りだったと評価しているのです。

父信玄が残した遺産と戦い続け、武田家最大の領地を獲得した彼こそ日本史上最強の「敗者」だと思うのです。




おまけ
大月駅から見えるこの山、勝頼が逃げようとした岩殿城になります

ちなみに小山田信茂織田家に投降しましたが許してもらえず一族もろとも処刑されました。