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翔んで埼玉、弾着古河

どうも

今話題の映画、「翔んで埼玉」見てきました。

http://www.tondesaitama.com/gallery/ より
埼玉には幼少期数年だけ住んだことがあるのですが、ほとんど記憶に残っておらず、東京の大学院に栃木から通う時も文字通り翔んで埼玉状態だったので特段思い入れがあるわけではないのですが、これが舞台栃木だったら映画かすらされないんだろうなぁって思って見てました。(内容はくそ面白かったです。あと、主役のGACKTがラスト、某大河ドラマで演じた長尾景虎にしか見えなかった。)

さて、栃木から東京に行くルートとして、湘南新宿ラインというJR東日本でもトップクラスに治安が悪い路線があります。その電車は栃木から埼玉を縦断し、車内で通行手形を受け取ってから東京に入国するわけですが、もう一県、通過する県があります。

それが茨城県古河市古河駅

古河と聞いてピンと来る人がいたら多分歴史好きなんだろうなって気がするのですが、古河公方足利氏の本拠地があります
ということは当然お城もある!

なので今回はこの古河の地を散策しようと思います。


湘南新宿ライン古河駅へ。
規模としてはソコソコの駅です

西口すぐ近くにレンタサイクルをやっている「わんぱくステーション」という施設があるのでそこで自転車を借ります
。無料でした!

万寿王丸くん。この人こそ初代古河公方、のちの足利成氏
関東管領山内上杉家扇谷上杉家と血みどろの戦を繰り広げます。

ところで古河公方って何?って人もいるかと思うので少し解説します。例によって長いのでもう知ってる、写真だけ見たいって人はすっ飛ばしてください。

室町時代、京都に置かれた幕府は関東地方の出先機関として鎌倉に鎌倉府を設け、そこの長官として鎌倉公方を置きました。初代鎌倉公方足利尊氏の四男、足利基氏、以後この人の子孫が代々鎌倉公方となります。鎌倉公方を補佐する関東管領として上杉氏が補任されました。この鎌倉公方、割と独立意識が強いらしく様々な局面で幕府とぶつかります。
そしてさらに鎌倉公方関東管領上杉氏も次第に対立状態となったため関東地方の政情が緊迫の度合いを強めていきます。


転機となったのが1439年。室町幕府6代目将軍足利義教と第4代鎌倉公方足利持氏が対立、両者の間でついに戦いが勃発します。
義教に対して半旗を翻そうとした持氏を時の関東管領、上杉憲実が制止しようとしますがこれに持氏が反発、憲実を暗殺しようとします。堪らなくなった憲実は将軍義教に救援を依頼、渡りに船とその依頼を受けた義教は持氏討伐の軍を派遣するのです。

これが永享の乱です。

戦い自体は幕府軍の勝利で終わり足利持氏は自害し、鎌倉府は一旦断絶します。
将軍義教は自分の子供を新たな鎌倉公方に据えようとしますがここで事件が勃発。

持氏の遺児、安王丸、春王丸が結城氏朝という武士に擁立され挙兵します。これが世に言う結城合戦。ただしこの戦いもすぐに鎮圧され、安王丸、春王丸は殺されます。

この時、持氏の遺児で辛くも生き延びた人物がいました。それが先ほど出てきた万寿王丸です。

結城合戦の翌年、京都では大変な事件が起こります。(大変な事件ばっか起こる…)

なんと将軍足利義教が赤松満祐に暗殺されます。世に言う嘉吉の乱です。

幕府はこの対応で大わらわとなり持氏の遺児なんかに構っていられなくなってしまいました。結果として万寿王丸の命は繋がったのです。

しかし結局鎌倉府は消滅してしまったので関東の統治ができない状態となってしまいました。

関東では足利持氏の旧臣によって、持氏の遺児を関東公方にまた据えてほしいという要望が出されており、幕府はこの声に押されて万寿王丸を鎌倉公方に任命します。万寿王丸は名を足利成氏と改め5代目鎌倉公方となりました。

しかしここで幕府は同時にとんでもない人事を行います。
なんと鎌倉公方を補佐する関東管領に、上杉憲実の息子上杉憲忠を任命するのです。

成氏からすれば憲忠は父親の仇、憲実の息子です。当然激しい憎しみを抱いています。

この人事が次の戦乱への導火線となってしまいました。
当然関東に平穏がもたらされることはなく、1450年には憲忠の家臣長尾景仲と足利成氏が戦いを始め(江ノ島合戦)、1455年についに上杉憲忠が成氏によって暗殺されます。

この事件を契機としてついに鎌倉公方関東管領の間で全面戦争が勃発、以後30年近くに渡って繰り広げられる享徳の乱が幕を開けます。

当初は成氏が優勢でしたが京都の幕府は関東管領上杉側に加勢を決めため成氏は徐々に追い詰められます。そこで自身の味方が多い上州や下野に近い古河の地に本拠を移します。

以後鎌倉公方古河公方となりました。

ここまでが古河公方誕生のあらましです。


ではでは早速お城に向かいましょう!!




と、言いたいところですが実は古河城は現在一部を残してほとんど遺構が消滅しています。

その原因がこれ

渡良瀬川です。

近代に入り、この辺り一帯は治水が最優先課題となり河川一帯の大改修工事が行われました。
そのため古河城の大部分が破却されてしまったのです。


この図を見てもらうと分かる通り、古河城は川に挟まれた要害の地にあると同時にかなり広範な城郭だったことがわかります。

破却されてしまった以上、わずかに残っている痕跡をたどっていくしかないのでレンタサイクル駆使して巡ろうと思います。


最初に来たのはここ福法寺
ここの寺の門は古河城で使用されていたもので、破却される際にこちらに移築されました。
平唐門と呼ばれる様式らしいです。

ここからすぐのところに鷹見泉石の記念館があります。幕末の蘭学者で古河藩に使えていた方です。当時の武家屋敷がそのまま残っています。


この武家屋敷のすぐ目の前に歴史博物館があります。
そこにも当時の曲輪の痕跡が残っています。
諏訪曲輪と呼ばれていた場所です
歩道が整備されたために見えにくいですがかすかに土塁の跡が残ります。

ここからさらに西へ行くと古河城で最も遺構が残っている土塁が現れます。



当時の古河城を紹介するパネルがありその奥に土塁が残っています。

ここが古河城においてもかなり戦略上重要な曲輪だったそうです。
裏手から見るとかなり大きめの土塁ということがわかります。

この土塁からまたさらに西に行くと渡良瀬川の堤防にたどり着きます。

堤防沿いにある自転車を漕いで行くと城の本丸に着きました。


本丸の跡地は完全に当時の面影を残していません。野球場になってました。

ここまで古河城の跡地を見て来ましたが、古河にはもう一つ、成氏が城の1キロほどに築いた古河公方があるのでそちらに行きます。

途中に松月院というお寺の跡があり、そこに御所塚という場所があります。

古河公方足利義氏の孫義親の妻の墓と推定されています


案内板によると他に二つほど古河公方ゆかりの寺があるそうです

ここからすぐのところに古河公方館跡があります。今は古河総合公園となっています。


この時期は桃祭りを行なっているらしく、賑わいを見せています。この公園の中に沼があり、半島のように突き出た土地があります。そこに公方館がありました。

橋から見た公方館跡です。土塁の跡と思しき形状が確認できます。
ここが公方館跡です。
古河公方は成氏の後政氏、高基、晴氏、義氏と続きます。義氏には男の子孫がなく足利氏姫が館主として江戸初期まで住んでいました。

この館跡のすぐ近くに古河に残っている伝統住宅が展示されていました。

昔ながらの住宅ということで居間や道具が展示されています。
しかもこの住宅、大河ドラマ西郷どん」の撮影で使用されたそうです。


この公園内に「徳源院」という寺院跡があります。先ほど出てきた足利義氏、その娘氏姫、さらに氏姫の息子義親の供養塔があります。


足利氏姫の石塔

足利義親の石塔

ここに足利義氏の遺骸、もしくはその一部が埋葬されているとのことです。

さて、古河公方のその後ですが、足利成氏と上杉氏との死闘も1478年に和解が成立することで終結します。しかし今度は上杉氏の中で内紛が起こり、山内上杉家扇谷上杉家との抗争が始まります。世に言う長享の乱です。

このように古河公方、上杉氏が抗争を続けているうちに伊勢新九郎盛時、後世北条早雲が力を持ち始め上杉家の領国を犯し始め、2代目の北条氏綱もさらなる勢力の伸張を図ります。ここにいたり関東の秩序を守るため、古河公方山内上杉、扇谷上杉の三氏が手を組むこととなります。

そしてついに古河公方足利晴氏山内上杉憲政、扇谷上杉朝定の3人が手を組み氏綱の息子、北条氏康に戦いを挑みます。

しかし川越城の戦いで大敗し山内上杉憲政は越後に亡命、扇谷上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉氏は滅亡します。

残った古河公方足利晴氏北条氏康の妹を娶っていたため助命されましたが幽閉されることとなります。結局北条の血を引く息子、足利義氏古河公方の座を譲らざるを得なくなりました。

さて、この足利義氏ですが先ほど言ったように男系子孫がいないため娘の氏姫が名目上の当主となり、北条家に支配されることとなります。

1590年に北条家が滅亡した際、北条の支配から解放された氏姫ですが、豊臣秀吉の命令で関東に残っていた足利家の血筋(世に言う小弓公方の生き残り)、足利国朝と結婚、さらに国朝病死後はその弟の足利頼氏に嫁ぎます。
そして子供、足利義親が生まれます。

この足利頼氏、義親と連なるこの血統が足利家の事実上の当主となり、今の栃木県さくら市を本拠として喜連川藩を立藩します。

石高5000石の藩ですが足利将軍家の血筋を引くことから御所号を許された上に10万石相当の待遇を受けました。さらに参勤交代も免除されると言う名家ゆえの特典、恩恵を受けます。

しかし5000石の収入で10万石の家格を維持することは至難の業で財政は火の車、日光街道を抑えた土地だった故に宿場町を主な財源としてなんとか乗り越えていったようです。

それでも与えられた特典やその家格の高さから江戸幕藩体制の枠組みからも外れ、喜連川藩は自らのことを「天下ノ客位」、「無位ノ天臣」と呼んでいたそうです。様々な意味で興味深いお家だなって思います。

この喜連川家、明治維新まで見事に生き抜き、鎌倉公方の血筋を今に伝えています。


戦国関東地方を逞しく生き抜いた古河公方足利家の歴史に触れることができた古河散策でした。

おまけ

桃の花
綺麗でした